【毎月1回(くらい)更新します】

公園考 その14 -高いところ-

なんとかと煙は高いところにのぼりたがる。

うちのこどもたちは、高いところが大好きだ。小高い丘をみると駆け上がっていくし、ジャングルジムをみると頂上を目指してのぼりつめる。

そんなこどもたちの様子を見て、「人は本能的に高いところにのぼりたがるんだな」と思っていたが、どうやらそうでもないらしい。高いところをこわがるこどもが増えているという話をこの頃よく聞く。

そう言われて思い出した。うちの上の子も公園のザイルロープに上るのを最初はこわがっていた。成長するにつれて、だんだん高いところにチャレンジするようになっていった。最初から平気でのぼれる子もいるから、それぞれの個性かもしれない。もちろん、成長の段階も関係があるだろう。

高いところをおもしろいと感じるのも、こわいと感じるのも、その要因のひとつには、新しい風景の獲得があると思う。目線の高さが異なると、世界がいつもとちがって見える。試みに、こどもといっしょにザイルロープの頂上に登ってみた。たしかに、こわい。だけど、新鮮だった。かなり爽快。こどもの公園あそびには親は付き添いの役割と思っていたけれど、こんな風景を体験すると親もたのしい。

ブログを書くということ その3 -駄文-

駄文を書き散らすな。

学生のころ、よく言われていた。いや、はっきり言葉として言われたことはなかったかもしれない。なんとなく、駄文を書き散らすことは好ましくない、黙して深く論考せよ、という雰囲気だった。たしかに、何を伝えたいのかわからない自己完結的な文章を建築系の雑誌で見かけることがあったから、それに対するけん制という意味もあったのだろう。

ずっと、そのスタンスでいこうと思っていたけれど、このブログに20回ほど連載するうちに考え直すようになった。まだ人様にお見せできるものではないと謙虚に控えて論考し続けていたとしても、ある日突然すばらしい文章を発表できるはずもない。その論考も、きっと、ひとりよがりに陥っているだろう。だから、せいぜい駄文を書き連ね、批評され、すこしずつでもましな文が書けることを目指したい。そして、読者のみなさまとともに、こどもが育つ環境のあり方について広く考えていきたい。

ブログを書くということ その2 -点から線、線から面へ-

わたしの好きな本のひとつに、佐藤雅彦さんの著書「毎月新聞」がある。

これは、毎日新聞に毎月掲載されたコラム集である。このなかに、小さくて消え入りそうな点を月1回続けて発表することで線にする、というような文章がある。

わたしも同じような思いでこのブログを書いている。点を線にする。そのためには少なくとも月1回くらいは更新したいと目標をさだめ、こつこつと続けている。

そして、このブログのよいところは、ほかの人のブログがすぐ隣にあることだ。たとえば、わたしのインデックスの右隣の「友田修・中村仁」のページでは、タウンウォッチングをたのしめる。左隣の「添田昌志」のページでは、大学でなければ研究はできないか、という興味深い論考を読むことができる。佐藤雅彦さんにならって言えば、線は面になる。

点から線へ、そして線から面へ。これこそが、ネットワークを活かすLLP人間環境デザイン研究所のよいところだと思う。

ブログを書くということ その1 -ささやかなこと-

人間環境デザイン研究所のウェブサイトにブログを書きはじめてから、これで20本目となる。

  

1本目の「自己紹介に変えてーこどもに向けるまなざし」の文末に書いたこと(このブログでは、こどもに目を向けて日々暮らしていくなかで感じたこと、考えたことを伝えていきたい)は、細々とではあるけれど、なんとか実行できている。

実のところ、いつも悩みながら書いている。えらそうな語り口ではないか、的外れなことを書いていないか、あるいは、あたりまえのことを言っているだけではないか、などなど。けれども、日々の暮らしのなかで考えたことをもとに、ともかく論を起こすことからはじめるほかないと割り切ることにした。

ときには、公園や授乳室がテーマにブログを書くなんて、なんと小さな仕事かと思うこともある。ただ、小さな仕事をないがしろにする者に、大きな仕事、つまり、将来を担うこどもが育つよりよい環境づくり、なんて目指すことすらできるはずがないと思う。

広い視野をもって遠くを見つめながら、ささやかなことから丁寧にはじめていきたい。

公園考 その13 -プレーパーク-

プレーパークは、こどもたちが自由にのびのびとあそべる公園である。

わたしが住むまちにもプレーパークがある。厳密にいえば、区の「ふれあいパーク活動」の指定公園がある。つまり、ふだんはふつうの公園だけれど、毎週決まった曜日にプレーパークの活動が行われる。プレーリーダーがやって来て、ハンモック、泥あそび、木工作、焚き火、流しそうめんなど、さまざまな活動が行われる。

その日を目指して地域のこどもたちが集まってくる。すると、空間が劇的に変わる。 

わたしはその瞬間に立ち会ったことがある。うちのこどもたちがプレーパークの活動を楽しみにするあまり、プレーリーダーが来る時間よりもずいぶん早く公園に着いてしまったときのことだ。まだ誰一人来ていなかった。しかたなく、娘、息子、わたしの3人であそぶことにした。いつもは大人気で待ち行列ができるターザンロープも乗り放題だ。けれども、なんだかいまひとつ盛り上がらない。やがて、プレーリーダーがやって来て、地域のこどもたちが集まって来た。すると、急に公園がまるで命を宿ったかのように生き生きと動き出したように感じた。

プレーパークは、空間そのものが魅力的なことが多い。緑豊かで、起伏があり、かつ平地が広がる。手づくりの遊具がある。土や水に触れられる。だから、空間こそが重要だと思ってしまいがちだ。けれども、空間だけでは足りない。空間を舞台として人が登場することで、豊かなあそびが生まれる。公園の設計に関わる者として、このことを謙虚に受け止めたい。

公園考 その12 -ブランコあそび-

遊具におけるこどものあそびには発展段階がある。

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環境建築家の仙田満は、著書「あそび環境のデザイン」(*)のなかで、遊具におけるあそびの様相には3つの段階があると指摘している。

 

第1の「機能的あそび段階」では、遊具にそなわった機能を初歩的に体験する。

第2の「技術的あそび段階」では、いろいろ工夫してより高度な技術を使ってあそぶ。

第3の「社会的あそび段階」では、遊具を媒介としてゲームなどに発展する。

 

すべり台を例に考えてみると、機能的段階では、階段をのぼり、すわった状態で滑降面をすべる。これを繰り返すと技術的段階に移行し、すわった状態だけでなく、手でこいだり、あお向けに寝てすべったり、腹ばいで頭からすべったり、さまざまな方法に挑戦する。そうするうちに社会的段階に発展し、すべり台を舞台におにごっこなどをするようになる。

この「遊具におけるあそびの発展段階」は、イラストを用いてわかりやすく解説されており、はじめて読んだときからずっと記憶に残っていた。すべり台は社会的段階に発展しやすいけれど、ブランコは技術的段階まではいくが、ごっこあそびなどが起こりにくいということも覚えていた。

さて、頻繁にこどもたちと公園であそぶようになったいま、たしかにそのとおりの発展段階があると実感している。同時に、社会的段階には至らなくても、技術的段階や機能的段階もそれぞれとてもおもしろいということに気づかされる。

ブランコにはじめてひとりですわり、足を曲げたり伸ばしたりしながら、自分の力でゆらゆらと漕げたとき(機能的段階)、こどもの顔は、すこし緊張しながらもうれしさにあふれる。だんだん慣れてきて、立ち漕ぎをしたり、おなかを座面に乗せて空を飛ぶような姿勢になったり、ふたりで背中合わせに乗ったり、果ては、鎖を両手でつかんでくるっと後転することさえある(技術的段階)。何度もチャレンジしてようやくできるようになると、「見て見て」と得意気に披露する。

わたしは無意識のうちに社会的段階に発展するものがよいものだと思い込んでいた。建築に携わる者にままみられるコミュニケーション至上主義というべきものかもしれない。けれども、ひとつひとつの段階にそれぞれ価値があることをこどもたちから教えられた。

ここで大急ぎで付け加えなければならない。上記の技術的段階のあそびかたは、安全性を考慮すると、望ましいものではないだろう。親がそばに付いていて見守ることが求められる。とはいえ、そんな堅苦しく考えなくても、こんな魅力的なあそびから目を離さずにはいられない。

 

(*)仙田満:あそび環境のデザイン、鹿島出版会、1987

公園考 その11 -ジャブジャブ池-

夏の公園、といえば、ジャブジャブ池だ。

16ジャブジャブ池

ジャブジャブ池といっても、池のように水が溜まっているものだけでなく、せせらぎのように水が流れるもの、滝のように水が落ちるもの、噴水のように水が噴き上がるものなど、さまざまなタイプがある。

正直に言うと、こどもの施設や公園の設計に関わる者としては、ジャブジャブ池を軽んじていたと思う。しょせん偽物の自然にすぎない、だから、積極的に導入したいものではない、と思っていた。

けれども、笑い声をあげながら夢中になってジャブジャブ池で水とたわむれるこどもたちの姿を見ているうちに、考えを改めるようになった。疑似的な自然であっても、こどもたちにとっては貴重な機会なのだ。

もちろん、本物の自然にはかなわない。そこに共生する生き物の豊かさは比較にならない。水にともなう危険性も同様だろう。擬似的な自然は、管理された自然ともいえる。このことをきちんと知っていれば、都市における身近な自然として、ジャブジャブ池はじゅうぶん楽しめる。

さて、ジャブジャブ池の設計にあたって検討すべき事項はたくさんある。水質を維持するための循環システムの検討、裸足に配慮した床仕上げの選択、シャワーや足洗い場の設置などなど。どれもこれも重要なことだけれど、ここで取り上げたいのは、やはり太陽との関係だ。以前の記事(公園考その1 -砂場あそび-)においても、砂場と太陽との関係について触れたが、夏の暑いときにこそ利用したいジャブジャブ池では、日陰の存在が不可欠となる。木陰、パーゴラ、あずまやなどで涼しく休めるところをジャブジャブ池のそばにつくりだすことを心がけたい。

授乳室研究 その5 -ベビーカーの移動軌跡-

授乳室の設計を実際にやってみると、すこし面倒な状況があることに気づく。

15ベビーカー

以前の記事(授乳室研究 その4 -パンフレット完成-)に書いたように、わたしたちは、これまでの研究成果をまとめてパンフレットを作成した。次の展開として、すぐに設計にとりかかるのではなく、出版の企画を進める方針とした。しかし、不思議なことにというべきか、当然というべきか、現在、いくつか授乳室を設計する機会に恵まれている。

授乳室を設計することはたのしい。研究成果を社会に還元できる、などと小難しいことを言わなくても、考えていることを形にできるのだから、そして、より良い環境づくりに関われるのだから、たのしくないはずがない。

けれども、設計を進めるなかで、あれ、困ったな、ということがある。たとえば、ベビーカーの移動軌跡がよくわからない。ベビーカー本体のCADデータすら一般的には普及していない。バリアフリー法制定以降、車椅子についての情報は着実に充実しつつあるのに、ベビーカーについては関心が薄いようだ。

あるいは、車椅子で無理なく利用できればベビーカーでも問題ないはず、と考えて設計する人が多いのかもしれない。けれども、車椅子とベビーカーでは、本体の構造や車輪の大きさがまったく違うから移動軌跡は異なるはずだ。わたしは自宅に所有しているベビーカーをもとに本体寸法や回転半径を測って設計に取り組んでいるが、メーカーや種類によっても移動軌跡は異なるだろう。

そもそも、ベビーカーごと入れない授乳室やベビーカーですれ違えない通路が巷にあふれている現実をみると、かならずしもベビーカーを考慮して設計しているとは思えない。ベビーカーをいちいち測る手間と時間が惜しいというのが、いそがしい設計者の本音だろう。

そこで、わたしたちは、設計や出版に先立つ段階として、「子連れ行動の単位空間」のデータを蓄積したいと考えている。子連れ行動の単位空間として検討すべき項目は、ベビーカーの移動軌跡だけでなく、こどもといっしょに外出するときに持っていく荷物の大きさ、こどもの手を引いて歩くときに必要な幅など、たくさんある。

このような子連れ行動の単位空間のデータが、設計に役立つこと、ひいては、親子で外出しやすい環境づくりに貢献できることを願っている。

公園考 その10 -採集-

こどもたちは公園でむやみやたらといろいろなものを採って集める。

nakapark10

どんぐり、落ち葉、花びら、小枝、石・・・

なぜ、こんなにも夢中になって採るのだろう。そんなものを集めて何が楽しいのだろう。こども心を失ってしまったおとなは不思議に思う。

たぶん理由なんてない。採りたいから採るのだ。集めたいから集めるのだ。これこそが、あそびの原初的な姿だろう。近年、あそびの効用が謳われ、ともすれば強調されすぎだと感じる。いわく、体力の増進、心身の安定、創造力・想像力の向上、社会性の獲得など。けれども、これらを目的としたとたん、あそびはあそびでなくなる。つまらない「訓練」に成り下がる。あそびは他に目的をもたない。あそぶことそのものが目的なのだ。

だから、こどもたちが無心に拾い集める姿に「ホモ・ルーデンス(あそぶ人間)」たる人間本来の姿を学びたい。「そんな汚いもの拾わないの!」などと小言をこぼさずに。

ところで、上の写真は2009年秋に撮影したもの。ブログにアップしそこねているうちに2年近く経ってしまった。こどもと暮らすなかで感じ、考え、記録しておきたいことはたまっていく一方だ。どんどん書いていかなければ、こどもの成長に追いつけない。

公園考 その9 -アート遊具-

アートのような、遊具のような、不思議なものをみつけた。

13アート遊具

これは東京のまんなかにある商業施設内の広大なグリーン(緑地帯)に設置されている。まずは、このような場所があることがすばらしい。こどもと公園であそぶことはたのしいが、おとうさん、おかあさんもたまにはショッピングをたのしみたい。このような場所があると、子連れでお出かけしやすい。

さて、この不思議なものは、はたして、パブリックアートであり、すべり台であった。作家は、日本の美意識を表したいと考え、卍の紋からインスピレーションを受けて制作したという(*)。端正なたたずまい。その魅力は遠くからも伝わり、こどもたちは見つけるとすぐに駆け寄っていく。

近づいてみると、なにやら注意書きがある。「したからのぼらない」、「おりぐちであそばない」、「たったまますべらない」。以前の記事(公園考 その5 -遊具の対象年齢-)で紹介した日本公園施設業協会による遊具個別注意シールだ。

繰り返しになるが、安全にあそぶことはもっとも大切なことだから、同協会の試みは高く評価したい。けれども、この注意シールをみていると、なんだか元気がなくなってしまう。

不意にイサム・ノグチの有名なエピソードを思い出す。ブラック・スライド・マントラという黒御影石の渦巻き状のすべり台をつくったときに、「この彫刻はこどもたちのお尻で磨かれて完成する」と語ったそうだ。たくさんのこどもたちが何度もすべる姿が目に浮かぶ。想像しただけで元気がでる。

この注意シールが伝えたいことも、イサム・ノグチの思いと相反するものではないだろう。「したからのぼらない、おりぐちであそばない、たったまますべらない」。つまりは、「お尻ですべる」ことを願っている。だからといって、注意シールに「お尻ですべる」と表記しても、なんのことやらわからない。いっそ一切の事故は自己責任と無責任に言い切ってしまえれば楽なのだけれど、そうはいかないところに、いまの遊具、ひいてはこどものあそびをとりまく環境、の難しさがある。

すべり台の本体に注意シールを直接貼るのではなく、別に設けたポールに貼っていることに、このすべり台の作家とここであそぶこどもたちに対するせめてもの心くばりを感じるべきなのだろうか。

 

*参考URL

アートワークin 東京ミッドタウン ウェブサイト  http://www.tokyo-midtown.com/jp/design-art/artwork/14/