高さ制限の系譜に見る「景観保全・形成」の考え方

 

絶対高さ制限の実施にあたって、「歴史的景観保全」や「街並み景観の保全・形成」を目的に掲げる自治体が少なくない。

しかし、景観保全を意図した絶対高さ制限の動きが主流となってきたのは、ここ最近の傾向なのである。

 

そこで今回は、我が国における高さ制限の系譜を整理した上で、「景観保全・形成」の考え方がどのように位置づけられてきたかを簡単に概観してみたい。

 

 

■戦前における高さ制限

我が国における高さ制限手法は、市街地建築物法を嚆矢とし、交通、衛生、保安を目的として、用途地域における絶対高さ制限(住居地域65尺・20m、その他の地域100尺・31m)、構造による高さ制限、道路幅員に応じた高さ制限の3つを基本として実施されていた。

 

上記3つの手法は景観保全・形成を目的としたものではなかったが、美観地区や高度地区といった制度が景観(美観)保全の手法として用意されていた。

 

美観地区は、美観保持を目的として高さに限らず建築物等の規制を行う制度であるが、宮城(現在の皇居)、伊勢神宮周辺など特定の場所が中心であり、その後の活用はあまり進まなかった。

 

一方、高度地区は高さの最低限度と最高限度を定める制度であるが、戦前においては大都市の駅前等の高度利用の促進を目的とした指定が多く、建築物の高さを抑える手法として活用されていたわけではなかった。

これは、当時、大部分が木造の低層家屋が大部分であったため、高層化と不燃化は一体的に捉えられ、「高度利用=美観形成」と認識されていたことによる。

 

 

■高度成長期(1960年代~70年代)における高さ制限

高度成長期に入ると、床需要の増大や構造技術の進歩等から、31m制限等の絶対高さ制限の合理性が問題視されるようになる。

その結果、1961(昭和36)年の特定街区制度創設、1963(昭和38)年の容積地区制度創設を経て、1970年には第一種住居専用地域(現在の低層住居専用地域)を除いて絶対高さ制限が撤廃され、容積率制限へと全面移行した。

 

一方、1960年代半ばから1970年代にかけて、日照紛争が社会問題化していたこともあり、高度地区や用途地域による北側斜線制限が行われるようになる。

 

つまり、高度成長期以降、容積率規制による容量コントロールと斜線制限による形態規制が中心となり、選択制となった絶対高さ制限は一部の都市(横浜市、京都市等)を除いてあまり活用されなくなる。

70年以降絶対高さ制限が利用されなかった理由は、①選択事項であったこと、②都心部等では高層化が求められたこと、③当時問題となっていた日照確保のためには、絶対高さではなく、北側斜線制限や日影規制で対応可能であったこと、④大半の地域ではそもそも大きな建物があまり建たなかったことなど、絶対高さ制限を用いる必要性が醸成されていなかったためと思われる。

 

この時期に景観保全を目的とした条例制定による高さ制限実施の動きも見られるが、金沢市、倉敷市、高山市、京都市など歴史的な景観を有する都市が中心であった。

 

■00年代以降の高さ制限

90年代半ば以降の景気対策としての各種規制緩和の流れの中で、低層の住宅地などにおいても高層建築物を巡る建築紛争が増加していく。多くの自治体が景観条例等により独自の規制・誘導を行っていくことになる。

しかし、法的拘束力のない「お願い」条例であるものが多く、実効性が確保できないことから、高度地区等による絶対高さ制限の実施が進む。

 

90年代以降、絶対高さ制限が再評価された背景には、建築紛争において景観が焦点となっていったことが挙げられる(国立市、名古屋市白壁等)。

街並み景観や眺望景観を保全するためには、どうしても建物の高さを一定程度に抑える必要がある。

そのため、容積率規制や斜線制限だけでは対応が難しいとの共通認識が生まれ、絶対高さ制限が行われるようになってきたわけである。

 

 

■景観の位置づけの変遷

以上からわかるように、戦前から1960年代くらいまでにおいては、都市部であっても木造の低層家屋が中心であったことから、高層不燃化こそが景観形成に必要であると認識されていた。

つまり、「高さを抑える」のではなく、「高度利用を図る」ことが求められたわけである。

 

高さを抑えることによる景観形成は、皇居、伊勢神宮などのいわば国家レベルの重要な美観のみに限られていた。

当時はそもそも高いものが建たなかったために、それ以外のエリアでは特に必要とされていなかったとも言えるだろう。

 

しかし、高度成長期に入ると、全国的に進められた国土開発の反動として、歴史的景観保全のための高さ制限の動きが見られるようになる。

そして、80年代に入ると、歴史的な都市に限らず一般的な市街地においても景観条例による取り組みが進み、90年代後半以降になると、建築紛争においても景観保全が焦点となることが多くなった。

 

以上の戦前から現在までの流れから、高度利用(高層不燃化)による景観形成から、高さの抑制による景観保全・形成へと変化してきたことがわかる。

さらには、「景観保全」の概念も、国家レベルの特別なものから、歴史的な街並みにも用いられるようになり、その後、生活に密着した一般的な市街地における景観へ広がりをみせてきたと言えるだろう。

 

御堂筋における高さ制限の変遷

 

2012(平成24)年1月25日、橋下徹・大阪市長が御堂筋の高さ制限の撤廃に言及した。

御堂筋の高さ制限について「どこまでこだわり続けるのか、これまでの行政の考え方を超えて考えてもらいたい」と述べた上で、見直しの検討を指示したという(読売新聞2012年1月26日記事)。

「かいわいは不夜城でもなく、高度化した都市の感じもしない」ために、「マンハッタンの摩天楼のように(高さ規制を)開放してもいいのでは」(朝日新聞2012年1月25日記事)と述べていることから、高さ制限の緩和による御堂筋の高層化を意図しているようである。

また、「中心地に高度な(建物の)集積地をつくり、郊外はゆったりめという都市にすべき」(読売新聞)との見解も示していることから、御堂筋の高さ制限撤廃を大阪の都市構造再編の一環として位置付けているとも考えられる。

 

しかし、都心人口の受け皿として御堂筋が適切なのだろうか、また、御堂筋が摩天楼になることが望ましい姿と言えるのだろうか。

 

確かに、行政の旧弊を打破するといった掛け声は心地よく響くかもしれない。

だが、これまでに形作られてきた御堂筋の街並みを「旧弊」の一言で片づけてよいのかは疑問である。

 

御堂筋沿道においては、1920(大正9)年に施行された市街地建築物法の高さ制限によって100尺(31m)の街並みが形成され、1969(昭和44)年の容積地区指定後も行政指導に基づき軒高31m制限が継承されることとなった。

その後、1995(平成7)年には軒高31m制限が50mへと緩和され、さらに2000年代に入ってからは、淀屋橋で最高高さ70mの開発が認められ、本町4丁目では140mの高層ビルが建設された(ただし中層部の軒線は50m)。

ここ20年は、なし崩し的に高さ制限が緩和されていったとも言えるが、軒線の揃った街並みの形成という考え方は約90年にわたり継承されてきたのである。

 

2012年2月2日付の毎日新聞大阪朝刊には、「府関係者によると、オフィスビルが建ち並ぶ御堂筋沿いの建物に対する50メートルの高さ制限も撤廃する。」と、高さ制限の撤廃が既定路線になっているようにも受け取れる記事が掲載されている。

府市統合本部で6月までに結論が出されるとのことだが、このような短期間で大阪のシンボルである御堂筋の方向性が決められてよいのであろうか。

 

御堂筋における歴史的な蓄積を安易に捨て去るような判断を避けるためにも、まずはこれまでの御堂筋における高さの考え方を踏まえる必要があると思われる。

そこで以下では、御堂筋における高さ制限の変遷とその背景を見ていきたい。

 

<目次>

1.100尺(31m)制限下における御堂筋:1920年~1969年

2.行政指導による31mの軒高制限:1969年~1994年

3.行政指導による50mの軒高制限(31m→50mへの緩和):1995年~現在

4.拠点エリア(都市再生特別地区)における超高層ビルの容認:2000年代~

5.御堂筋における景観保全・形成の課題と展望

 

 

図1 御堂筋における高さ制限の変遷

 

 

 

 

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1.100尺(31m)制限下における御堂筋:1920年~1969年

 

御堂筋は、1926(大正15)年に着工し、1937(昭和12)年に完成した梅田と難波を結ぶ大阪のシンボル的な街路である(淀屋橋―本町間965mは1934(昭和9)年に竣工。イチョウ並木もこの年に植えられている)。

 

着工の6年前の1920(大正9)年に施行された市街地建築基準法に基づき、御堂筋の沿道は31mの制限がかけられていた(図2参照。住居地域は絶対高さ65尺、住居以外の地域(商業地域や工業地域等)は100尺に制限)。

つまり、100尺制限は御堂筋独自の制限ではなく、市街地建築物法が適用される区域の商業地域では全国共通で100尺に制限されていたのである。なお、1931(昭和6)年の市街地建築物法施行令の改正でメートル法が導入され、100尺の制限は31m、65尺は20mへと置き換わっている。

 

その後、100尺の建物が建ち並ぶ街並みが形成されていったわけであるが、これは意図して作られたものというよりは、法律が定める制限の限度一杯まで高度利用を図った結果として生まれた街並みであったと言えよう。

とはいえ、こうしてつくられた100尺で揃った街並みはイチョウ並木とともに御堂筋を象徴する景観を構成するようになるわけである。

 

 

図2 市街地建築物法による高さ制限

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

2.行政指導による31mの軒高制限:1969年~1994年

 

①容積地区導入と美観地区条例案の作成

1969(昭和44)年4月、御堂筋を中心とする大阪都心部に容積地区が指定され、区域内では容積率によって建物のボリュームが制限される代わりに、31mの絶対高さ制限が撤廃されることになった。

なお、容積地区の指定は東京に次いで2例目で、施行は同年6月。1970年の建築基準法改正で容積制が全面導入されたことに伴い容積地区制度は廃止され、結局、容積地区の指定は東京と大阪の2都市のみでの活用にとどまった。

 

御堂筋周辺は、容積率メニューの最大値である10種(容積率1000%)が指定されたが、その理由として「御堂筋は大阪の象徴とも言うべきところであり、巾員44mの道路ぞいにすでに高容積の建物が並列している」(大阪市容積地区指定基準)ことが挙げられている。

容積地区指定に関する答申を行った大阪都市計画地方審議会は、「御堂筋のように既成の建築集団がすでに統一的形態をなしている地区については、これを維持するよう高さの制限等について容積地区施行と同時に必要な法的手続をとること」との附帯意見を示していた。

大阪市は、容積地区の指定にあたって設置された「容積地区研究会」において「御堂筋の淀屋橋、本町間のスカイラインは確保したい。」との見解を示していたこともあり、都市計画地方審議会の附帯意見を受けて美観地区条例による高さ制限の検討を開始する。

 

大阪市内では、1934(昭和9)年に美観地区(御堂筋、中之島、大阪城西側、大阪駅、難波駅周辺)が指定された。

1950(昭和25)年の建築基準法制定で、美観地区の具体的な制限は自治体が定める建築条例で規定することとされたが、大阪市は条例を制定していなかった。

美観地区条例案では、高さを31mに制限する第1種美観地区と45mに制限する第2種美観地区が設定され、御堂筋周辺(淀屋橋―築港深江線間)は第1種美観地区に指定することが想定されていた(第2種は中之島での指定が検討されていたようであるが、具体的な区域は示されていない)。

 

絶対高さ制限の実施は、容積制の趣旨に反するのではないかとも考えられたことから、大阪市は条例案の法的な問題の有無を確認するために、法学者3名から意見聴取を行っている。

聴取内容は、憲法29条(財産権の保障)、容積地区制の趣旨との関係、制限の合理性、損失補償の必要性といった多様な観点から行われた。

その結果、条例による制限は不適当との判断が示され、さらに建築審査会と建設省も消極的な姿勢であったことから、市は条例制定を断念する。

 

②「御堂筋の景観保持に関する建築指導方針」による軒高31mの制限

美観地区条例の策定は行われなかったものの、100尺(31m)による街並みの維持を図るべきとの判断から、行政指導によって31mの軒線の制限が行われることになった(「御堂筋の景観保持に関する建築指導方針」による行政指導)。

 

この建築指導方針による制限は、斜線制限と屋上突出物の高さ制限の2種類から構成される(図3)。

 

前者の制限は、御堂筋側の道路境界線から31mの高さから、3:2(1:約0.66。水平方向3に対して垂直方向2)の勾配による斜線制限であり、建築基準法における商業地域の道路斜線制限(勾配1:1.25)よりも厳しい(図3左)。仮に階高を4mとすると、高さ31mを超える部分は、御堂筋側の境界線から最低6mセットバックする必要がある。

一方、後者の屋上工作物の制限とは、屋上工作物が前述の斜線制限にやむを得ずおさまらない場合は、7m以上のセットバックかつ最高高さ43m以下(31m+12m)であればその設置を認めるものである(図3右)。

 

高層部をセットバックさせれば31mを超える部分の建設も可能とする制限であるため、建物全体の壁面位置を後退させてしまうと、かならずしも軒線が31mにならないという欠点はあるが、当時のオフィスビルは1000%の容積率を消化するために、建蔽率ぎりぎりまで使うものが多かったことから、壁面後退をする建物はほとんどなかった。

 

 

図3 「御堂筋の景観保持に関する建築指導方針」(1969年)による高さ制限

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


3.行政指導による50mの軒高制限(31m→50mへの緩和):1995年~現在

 

「御堂筋まちなみ整備検討委員会」による高さ制限見直しの検討

行政指導開始から約20年後の1991(平成3)年、西尾正也・大阪市長(当時)が高さ制限の見直しに言及する。

当時は大阪の地価がピークに達しようとしたバブル期の只中であり、大阪市の商業地における地価公示の1983年時点の累積変動率を100とすると、1991年のピーク時は444と約4.5倍にまで高騰していた。

 

翌1992(平成4)年10月に市長が、「御堂筋まちなみ整備検討委員会」に対し、御堂筋の景観の方向性について諮問し、1994(平成6)年3月に高さ制限の緩和等を盛り込んだ提言を市長へ答申している。

 

委員会では、5つの整備試案を作成し、圧迫感、スカイライン、建物頂部の形態、壁面位置、建物の連続性、セットバック空間等の観点から検討している(図4)。

 

その結果、1000%の容積率消化や建物の質の確保の観点から、現行の指導要綱による制限の緩和が必要であるが、御堂筋の良さは「軒がそろっているということと道路際に壁が揃っていること」(第6回委員会での委員の意見)であるとの認識から、軒高を31mから50mに緩和し(最大高さは60m)、壁面後退距離を4mに制限する案が採択された。

当初、高さの基準については、「高さ制限は50m」とされていたが、「高さは50m」との表現に変更されている。つまり、50m以上でも以下でもなく、「50mに揃える」との意図を明確に示したわけである。

 

この案が採用された理由を委員会の議論からまとめると、1)D/H(道路幅員建物高さの比率)≒1となり、圧迫感の影響は少ないこと、2)セットバックによりイチョウ並木への生育条件にも悪影響を与えないこと、3)アトリウム、パサージュ、ポケットパーク等の設置による歩行者空間の整備が期待でき、足元周りのゆとりと賑わいが生れること、4)1000%の容積率が消化可能になること、等に集約できる(第6回委員会)。

 

 

図4 御堂筋まちなみ整備検討委員会での5つの試案

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

②日本建築学会による軒線31m制限の継続を求める要望

これに対し、日本建築学会は従来の31mの軒高制限の継続を求める「御堂筋の都市景観の保全・形成に関する要望書」(1994年6月)を大阪市長に提出する。

建築学会は、現在の御堂筋の都市景観を保全・形成する意義として、以下に示す3点を挙げた上で、「今回の高さ制限見直しを含めた現在の状況は、大阪の発展の中で優れた街並み形成に尽力されてきた大阪市の都市計画をはじめとする都市行政史上の重大な岐路に立っているといえます。今後、大阪が世界をリードしていくうえで求められている都市格を象徴する都市景観のあり方について、今まで築き上げられてきた御堂筋の都市美が失われることのないよう、慎重にご判断されるよう強く要望いたします。」と、高さ制限の緩和に反対する意向を表明した。

 

※要望書に示された御堂筋の都市景観を保全・形成する意義

1.御堂筋は、大都市の業務中枢エリアとして、これまで重要な役割を果たしてきたところであり、都市機能と景観が見事に統一された都市空間としての都心のステイタスを支えてきたこと

2.特に本町・淀屋橋間の都市景観は、統一ある連続したスカイラインと壁面線、バランスのとれた道路幅と建物高さ、さらに質の高い建築群により、我が国で他に類のない都市美が形成されてきたこと

3.御堂筋は、イチョウ並木とあいまって、市民をはじめ多くの人々によって長年親しまれ愛し続けられてきた大阪のシンボル的空間であること

 

これに対し大阪市は、「広く市民に評価されているイチョウ並木や、淀屋橋~本町間に代表されます沿道建築物の壁面の位置、並びに、軒の高さの統一につきましては十分に配慮する必要があると考えております」と軒高の統一に言及しつつも、31m制限には触れず、「「御堂筋まちなみ整備検討委員会」からの提言を尊重しつつ、指導方針を定め」ると回答している(「「御堂筋の都市景観の保全・形成に関する要望書」に対する回答」1994年8月1日)。

要するに市は、委員会案で示された軒高50m制限案を変更する意思がないことを示したわけである。

 

「御堂筋沿道建築物のまちなみ誘導に関する指導要綱」による軒線50mの制限

1994(平成6)年11月に「御堂筋沿道建築物まちなみ誘導に関する指導要綱」が策定され、軒高制限が31mから50mに緩和される形で、行政指導による高さ制限が継続されることとなった(翌1995年1月施行)。

 

従来の「建築指導方針」は、あくまでも斜線制限であったため、軒線31mの街並みが継承されるとは限らなかったわけだが、この指導要綱では壁面位置(4m後退)と軒高(50m)を明示したことで、軒線の統一が担保されることになったと言えるだろう(図5。高さと壁面後退距離はそれぞれ50m、4mジャストであり、それ以上でもそれ以下でも不可)。

75年間(1920年から1994年)かけて作り上げてきた31m(100尺)の街並みを捨てる決断をしたわけであるが、新たな数値で軒線の連続の継承を図ることになったわけである。

 

また、この指導要綱は、高さや壁面位置だけにとどまらず、セットバックした屋外空間の整備のあり方や低層部分における賑わい用途の誘導、外壁の形態意匠、建築設備の配慮、広告物の基準等も規定された点が特徴であった(表1)。

高さのみが規定された「建築指導方針」と比べて、より積極的な街並み景観の形成を意図した要綱へと再編されたと言えるだろう。

 

図5 「御堂筋沿道建築物まちなみ誘導に関する指導要綱」(1995年施行)による高さ制限

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

表1 「御堂筋沿道建築物まちなみ誘導に関する指導要綱」に規定された誘導基準の内容

 

 

 

④地区計画:御堂筋にふさわしくない用途の禁止

 

2001(平成13)年8月に、御堂筋地区地区計画が策定され、地区内における建築物の用途が制限されることになった。

 

用途の制限としては、ビジネスゾーンとしての風格にふさわしい土地利用を誘導することを目的として、マージャン店、パチンコ店、射的場、勝馬投票券発売所、場外車券売場、風俗店等の用途を御堂筋の街並みにふさわしくないものとして規制対象とした。

 

先に述べた指導要綱では、低層部への文化施設の導入の促進といったように、積極的に誘導すべき用途を挙げていたわけであるが、この地区計画では、最低限守るべきネガティブチェックのルールとして御堂筋に望ましくない用途の排除を行ったと言えるだろう。

 

 

 

 

 

4.拠点エリア(都市再生特別地区)における超高層ビルの容認:2000年代~

 ※本章については、記述に若干の誤りがあったため、2012(平成24)年5月16日に加筆・修正を行っている。

①御堂筋における規制緩和を求める動き

バブル崩壊後の景気低迷を背景に、規制緩和を求める動きが活発化する。

特に、銀行の店舗が多い御堂筋では、金融再編による店舗の統廃合による空室率の増加とともに、梅田や難波における再開発事業の進展による御堂筋エリアの求心力の低下が懸念されていた。

 

そこで、2000(平成12)年10月に、御堂筋活性化推進協議会が発足し、同年11月には「新しい時代の御堂筋」協議会が設置され、今後の御堂筋のあり方が検討されることとなる。

 

また、2001(平成13)年3月には、関西経済同友会が、高さ制限と容積率の緩和、ベンチャー特区の創設等を柱とする提言を発表し、20~30階建ての高層ビルの建築を容認すべきとした。

 

さらに、2002(平成14)年11月には、地元地権者企業から構成される「御堂筋まちづくりネットワーク」によって、御堂筋の将来像を示す「御堂筋スタイル創生」と具体的な規制の考え方である「御堂筋の新しい規制のあり方」の2つの提言が示された。

 

②淀屋橋地区都市再生特別地区(2004年)による規制緩和:軒高50m・最高高さ70mに緩和

こうした規制緩和を求める動きもあり、2002(平成14)年7月には、御堂筋を含む「大阪駅周辺・中之島・御堂筋周辺地域」が都市再生特別措置法に基づく都市再生緊急整備地域に指定され、2004(平成16)年12月に淀屋橋地区(旧愛日小学校の跡地を含む約0.8ha)において都市再生特別地区(以下、特区)が指定された。

 

この特区では、容積率の上限が1000%から1300%に割増されることとなったほか、最高高さが60mから70mに緩和されている。

最高部の高さは緩和されたものの、御堂筋側に面した部分については、壁面位置を4mセットバックした上で高さの限度を50mとする従来の指導要綱による軒線の連続性の考え方は踏襲されることとなった(それ以外の制限としては、容積率の下限700%、敷地面積の最低限度2,000㎡、建蔽率の最高限度が80%)。

つまり、特区の指定によって、指導要綱に基づく軒線50mと壁面後退4mの制限が法的に担保されることになったわけである。

 

 

図6 淀屋橋地区都市再生特別地区における高さ・壁面位置の制限

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでは70mという数値はどのようにして導かれたのであろうか。

当時の都市計画審議会の議事録によると、70mは景観シミュレーションを経て導かれた結論であるという。

図6に示すように、1)高さ50mの高さから20mセットバックして最高高さを70mとするもの、2)30mセットバックして最高80mのもの、3)40mセットバックして最高90mのもの、4)40mセットバックして最高150mのものの4ケースについて、淀屋橋交差点、伏見町交差点、道修町交差点の3つの視点場からの街並み景観への影響が検証された(注1)。

検討の結果、「今回、敷地を共同化して御堂筋でも珍しい一辺約80mの整形街区というまとまった規模での一体開発ということでございますので、御堂筋から20メートル後退した位置で建築物の最高高さを70メートルといたしましても、御堂筋のまちなみ形成上は、いろいろシミュレーション等検討いたしました結果から、影響はほとんどない」と市は判断し、10mセットバック、最高高さ70m案が採用されることとなった(平成16年度第4回大阪市都市計画審議会議事録)。

 

ただし、高さ制限の緩和については都市計画審議会でも賛否が分かれ、今後、同様の緩和を求める計画が出てきた場合を想定して、市としての景観形成の方針が必要であるとの意見も出されていた。

今回の特区の場合、ある程度まとまった規模・形状を持つ敷地であるから、緩和による景観への影響が少ないと市は説明していたわけである。つまり、同様の条件を有する敷地であれば、他の場所でも緩和を認める可能性を示唆していたとも解釈できる。

したがって、このように単発で高層建築物が許可されるようになった場合、指導要綱による50m(+10m)制限がなし崩し的に意味をなさなくなるのではないかとの懸念があっても不思議ではなかったと言えるだろう。

 

図7 淀屋橋地区都市再生特別地区検討時における高さのスタディのパターン(都市計画審議会議事録を元に作成)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

③本町三丁目南地区都市再生特別地区による規制緩和:軒高50m・最高高さ140mに緩和

 

2006(平成14)年10月、「新しい時代の御堂筋」協議会が「御堂筋活性化アクションプラン2008中間とりまとめ」を策定する。

この中間とりまとめによると、御堂筋沿道のうち、淀屋橋と本町の交差点周辺を活力と賑わいをもたらす「賑わい拠点ゾーン」と位置付け、賑わい機能を設けた場合に、最高高さ60mの高さ制限(軒高50m+屋上工作物等10m)の緩和を容認する方向で検討すると位置付けられた(ここで言う賑わい機能とは、1階に待ち合わせができるロビー空間やイベントステージ、次世代IT技術を体験できるショールーム等を指す)。

 

この中間とりまとめを受けて、2007(平成15)年2月に本町三丁目南地区都市再生特別地区が指定された。

当該地区は、淀屋橋地区と同様に、中層部の高さ50mとし、高層部は御堂筋側から20mセットバックさせて140mまで高さを認めるものであった(2010年10月にホテル、商業、オフィスの複合ビルである本町ガーデンシティが開業。最高高さは132m)。

 

図8 本町三丁目南地区都市再生特別地区における高さ・壁面位置の制限

 

 

御堂筋と本町通の結節点に位置する当該敷地の拠点性を活かして、新たなランドマークを創出するという意図があったようであるが、都市計画審議会では、ランドマークとして高さを誇ることが御堂筋の価値に寄与するのかといった点が指摘される等、淀屋橋地区の時と同様に高さの緩和の是非について議論されている(ただし140mという数値自体は議論になっていない)。

 

また、淀屋橋と本町が「賑わい拠点ゾーン」と位置付けられたことにあわせて、御堂筋地区の地区計画が見直され、淀屋橋地区と本町地区において、壁面位置と建築面積の最低面積の制限が追加された。

御堂筋沿道は4m、本町通りと土佐堀通り沿いは2mと規定したことにより、要綱に基づく4mセットバックの基準が法定計画である地区計画で担保されることになったわけである。

 

表2 淀屋橋地区・本町三丁目南地区における都市再生特別地区の内容

 

 

5.御堂筋における景観保全・形成の課題と展望

 

①高層化による街並みへの影響

1995(平成7)年に施行された「御堂筋沿道建築物のまちなみ誘導に関する指導要綱」によって軒高が31mから50mに緩和されてから、今年で17年が経過した。

写真を見てもわかるように、現在、31mと50mのラインが混在する街並みが形成されており、50mのラインで揃うまでにはまだまだ時間がかかるであろう。

写真 御堂筋における現在のスカイライン(赤ライン:31m、緑ライン:50m)

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうした状況の中、仮に御堂筋沿道での摩天楼化を認めたとしても、経済状況や敷地条件等から超高層化が進むのは数棟にとどまるのではないかとも推測される(市長は抜本的な敷地の再編等も視野に入れているのかもしれないが)。

超高層ビルが点在し、ただ分断されたスカイラインだけが残るという可能性があることも考慮する必要があるだろう。

 

また、御堂筋沿道は、一部を除くと奥行のある敷地が少ないために、高層部を後退させても、その距離には限界がある。

そのため、高層化を図った場合、軒高50mのラインによる街並み景観には大きな影響が出るのではないかと思われる。

淀屋橋地区の都市再生特別地区でも高さ70mであれば影響が少ないとの判断であったのだから、それ以上の高さにしたならばなおさら影響は避けられないのではないか。

 

 

②「景観地区」の指定による「大阪美観地区」の継承:高さ制限の法定化

これまで見てきたように、御堂筋の高さ制限は、1969(昭和44)年以来、行政指導(指導要綱)によって運用されてきた(総合設計制度や都市再生特別地区等のいわば個別開発によって担保されてきたケースもある)。

要綱による規制は、一定の効果をあげていると言えるだろうが、あくまでも「要綱」であるために法的根拠はない。

 

2006(平成18)年12月、大阪市は景観法の規定に基づく「御堂筋地区景観協議会」を設置した。

地権者や学識経験者、まちづくり団体(御堂筋まちづくりネットワーク)等で構成されるこの協議会では、要綱の法定化を議論したいとの意向を市は持っているようである(平成18年度第3回大阪市都市計画審議会議事録による市の発言)。

法定化の手法としては、すでに策定済みである市の景観計画への位置づけ、都市計画である景観地区(かつての美観地区制度)、地区計画等が考えられるが、現在、協議会メンバー間で法定化の合意が図れる状況にはなく、景観協議会は開催されていないという。

 

 

法定化は、ルールの実効性確保には有効である一方で、地権者の開発行為に制限を与えることになるため、自らの敷地での開発可能性を考えると、地権者は法定化に二の足を踏んでしまうのであろう。

市側もそのあたりを斟酌して、要綱によって一定の枠をはめつつも、法的拘束力は持たせないことでルールを超えた開発の可能性も保持しておきたいという思惑があるように思われる。

しかし、こうした迷いのあるスタンスが、現市長にはどっちつかずの対応とみなされ、高さ制限の撤廃という発言に結びついているようにも思えるのである。

 

ここでもう一度、御堂筋が美観地区に指定されていたことの意味を考える必要があるのではないだろうか。

「指定されていた」と過去形で書いたのは、1934(昭和9)年に指定された大阪美観地区は、2005(平成17)年6月1日をもって指定が解除されたからである。

2004(平成16)年に景観法が制定され、従来の美観地区制度は景観地区制度として再編されたが、大阪美観地区では具体的な制限内容を定める条例がつくられなかったために、景観法全面施行に伴って2005(平成17)年6月1日に指定解除となったのである。

 

美観地区の指定解除と都市再生特別地区における超高層化の推進が同時期に進んでいったことは、「美観地区」としての記憶が徐々に薄れていくことを象徴する出来事と言えるだろう。

やはり、安易な規制緩和へと傾くのではなく、「御堂筋沿道建築物のまちなみ誘導に関する指導要綱」を景観地区として位置付け、「美観地区」としての歴史を継承することが、御堂筋の価値を守り、高めるのではないだろうか。

 

御堂筋と同様に、シンボル的な街路沿いの街並みを守るために高さ制限を行っている場所として銀座がある(拙稿「銀座ルールから高さ制限のあり方を考える」参照)。

銀座には超高層建築物は必要ないと地元の人が決断し、2006年に高さ56m(屋上工作物を含めると66m)を限度とする「銀座ルール」を定めた。

街路幅員と建物高さの関係のバランスが、「銀座らしさ」を表す指標の一つであると銀座の人々が認識し、法的拘束力の強い地区計画で制限を行っているのである(しかも、総合設計や都市再生特別地区等による高さの緩和も認めていない(一部地区は除く))。

 

 

橋下市長の発言は、御堂筋のあり方を議論するきっかけを提供したという点で評価できるだろう。

しかし、高さ制限の撤廃を前提とせず、先人が築き上げてきた御堂筋らしさを継承する方向に議論を進めてもらいたい。

 

 

 

表3 御堂筋における高さ制限に関わる主な出来事

出来事

1919

大正8

4月

市街地建築物法・都市計画法公布

1920

大正9

9月

市街地建築物法施行(建物の高さが住居地域は65尺、その他地域は100尺に制限)

1931

昭和6

12月

市街地建築物法施行令改正によりメートル法導入(65尺は20m、100尺は31mに)

1934

昭和9

11月

御堂筋(淀屋橋―本町間)竣工

12月

美観地区指定(御堂筋、中之島、大阪城周辺(西側・南側)、大阪駅、難波駅等)

1937

昭和12

3月

御堂筋全通

1950

昭和25

5月

市街地建築物法に代わり建築基準法制定

1963

昭和38

7月

建築基準法改正(容積地区制度創設。指定区域内は絶対高さ制限31mが適用除外)

1969

昭和44

4月

大阪容積地区指定(御堂筋は第10種、容積率1000%)(施行は6月)。

6月

大阪容積地区施行。行政指導により軒線31mに制限(御堂筋の景観保持に関する建築指導方針)

1970

昭和45

6月

建築基準法改正(容積制全面導入)

1973

昭和48

8月

新建築基準法に基づく用途地域見直し(容積地区廃止。用途地域ごとに容積率設定)

1992

平成4

10月

大阪市長が「御堂筋まちなみ整備検討委員会」に御堂筋のまちなみのあり方について諮問

1994

平成6

3月

御堂筋まちなみ整備検討委員会が御堂筋のまちなみのあり方に関する提言を大阪市長に答申(31mの制限を軒高50m、最大60mへ緩和等)

11月

市が「御堂筋沿道建築物のまちなみ誘導に関する指導要綱」策定(軒高50m、壁面後退4m等。翌年1月施行)

1995

平成7

1月

「御堂筋沿道建築物のまちなみ誘導に関する指導要綱」施行

2000

平成12

11月

「『新しい時代の御堂筋』協議会」発足(大阪市、国交省、関経連、大阪商工会議所等)

2001

平成13

4月

新しい時代の御堂筋協議会が、「御堂筋活性化アクションプラン」策定(当該地区を「風格と活力あるビジネス空間」と位置付け)

8月

御堂筋地区地区計画策定(パチンコ店、マージャン店、風俗店等の御堂筋にふさわしくない用途を制限)

11月

「御堂筋まちづくりネットワーク」発足

2002

平成14

4月

都市再生特別措置法制定

11月

御堂筋まちづくりネットワークが御堂筋の将来像を示す「御堂筋スタイル創生」 と具体的な規制の考え方である「御堂筋の新しい規制のあり方」を提言

2004

平成16

6月

景観法公布に伴い大阪市が景観行政団体になる

12月

淀屋橋地区都市再生特別地区指定(高さ50mを超える部分のセットバックにより最高高さ70mまで緩和、容積率は1300%)

2006

平成18

2月

大阪市景観計画告示(10月施行。対象区域は市全域)

10月

「御堂筋アクションプラン2008中間とりまとめ」発表(拠点エリアでの高さ制限の緩和等)

12月

「御堂筋地区景観協議会」設置(御堂筋沿道建築物のまちなみ誘導に関する指導要綱の適用区域におけるルールのあり方等を検討)

2007

平成19

2月

本町3丁目地区都市再生特別地区指定(高さ50mを超える部分のセットバックにより最高高さ140mまで緩和、容積率は1300%、2010年10月に本町ガーデンシティが開業)

3月

御堂筋地区地区計画見直し(淀屋橋地区、本町地区における最低敷地規模、壁面位置制限の追加)

2012

平成24

1月

橋本徹・大阪市長が、大阪府市の統合本部会議で御堂筋沿道の高さ制限撤廃に言及。

 

 

 

 

【高さ制限撤廃に関する記事】

○朝日新聞2012年1月25日「御堂筋の高さ制限、橋下市長が撤廃検討を指示」

http://www.asahi.com/politics/update/0125/OSK201201250052.html

○読売新聞2012年 1月26日「御堂筋高さ規制見直し」

○朝日新聞2012年1月28日「御堂筋で高さ論争 橋下・大阪市長、高層ビル解禁狙う 「景観崩れる」反対も 」

○毎日新聞2012年2月2日大阪朝刊「大阪・御堂筋:40年後に緑の公園、大阪府がPT 「暮らしの場」へ車道撤廃、心斎橋に小山・ビル上は住居」

http://mainichi.jp/kansai/news/20120202ddn001010006000c.html

 

 

【御堂筋における高さ制限等のルール】

○「御堂筋沿道建築物のまちなみ誘導に関する指導要綱」の概要

○「御堂筋沿道建築物のまちなみ誘導に関する指導要綱」本文

○「御堂筋地区地区計画」計画書

○「御堂筋地区地区計画」計画図

○大阪市内における「都市再生特別地区」

 

 

高さ制限値45m・60mの由来

高度地区や景観計画による高さ制限値を見ると、15m、20m、31mといった値が多く用いられている。

 

15mは風致地区でよく用いられてきた数値であり(注1)、20m、31mは1970(昭和45)年の建築基準法改正で容積制が全面導入されるまでの間、用途地域にかけられていた絶対高さ制限値である(注2)。

 

これらの数値以外にも、主に商業地域の高容積エリアを中心として、45mや60mといった高層建築物を許容する数値を設定している自治体も少なくない。

例えば、45mを見てみると、高度地区では札幌市、山形市、文京区、目黒区、世田谷区、金沢市、名古屋市、大津市等で用いられており、景観計画では、川口市、各務原市、横浜市等で設定されている。なお、京都市では、45mの高度地区が商業地域・容積率700%のエリアにかけられていたが、2007(平成19)年9月の高度地区見直しで廃止され、31mに強化されている(注3)。

一方、60mは、札幌市、新宿区、金沢市が高度地区で用いられている(横浜市は、第6種高度地区(高さ20m)の緩和の上限値として60mを設定している)。

 

では、45mや60mという数値は、もともとどのようにして決められたのであろうか。

以下では、それぞれの数値が用いられてきた背景や由来を見ていく。

 

 

■45mの由来

 

45mの数値がはじめて建築法規に登場するのは、1963(昭和38)年の建築基準法改正による容積地区制度導入時に遡る。

この法改正により、容積地区を指定した区域内においては絶対高さ制限ではなく容積率と道路・隣地斜線制限によって制限されることとなり、31mの絶対高さ制限を超える高層建築物の建築が可能となった。

 

柔構造理論の確立をはじめとする構造・施工技術の進歩によって、31m超の高層建築物の建設が技術的にも可能となっていたが、当時の建築法規は31mの高さをもとに構造基準を設定していたため、高層建築物に対応した構造基準を定める必要が生じていた(注4)。

そこで、建設大臣が建築基準法第38条の規定に基づいて個別に安全性を確認し、認定する方法がとられることになったわけである。

 

認定審査の対象となる高層建築物としては、①建築物の高さが31m以上で、その構造形式が現行法規のたてまえによらないもの、②建築物の高さが45m以上のもの、とされた(注5)。

②の45mの根拠は、31mに塔屋部分として建設可能であった12mを加えた数値が45m程度であったことや、当時既に45m程度の高層建築物は建設されておりこれらについては従来の剛構造に基づく構造基準で対応可能であると判断がなされたことが考えられる(注6)。

 

一方、現行法の基準では対応できない建築物、つまり「柔構造でつくられる高さ31m超の建築物」と「高さ45m超の建築物」については、個別の案件ごとに「高層建築物構造審査会(注7)」の構造安全審査を受けて、建築基準法第38条の規定に基づき建設大臣の認定を得ることとされた。

しかし、法令の構造規定についてはほとんど改正がなされなかったため、1964(昭和39)年に日本建築学会により「高層建築技術指針」が作成された。

この技術指針は、高層建築物の設計、施工の指導書として活用されることとなったが、この指針の対象建築物が45m超の高層建築物であった。

 

以上から、構造上の基準として採用された45mが、後に1973(昭和48)年の京都市高度地区の都心部の高さ、横浜市高度地区の特例許可による緩和の上限値として用いられることとなり、現在に至るわけである。

 

 

■60mの由来

 

建築基準法においてはじめて60mの数値が見られるようになるのは、1980(昭和55)年7月に公布された改正建築基準法施行令においてである(いわゆる新耐震基準が示された政令)。

45m超の高層建築物については高層建築物構造審査会の構造安全審査を経て、大臣認定が必要であると先に述べたが、この政令改正によって大臣認定が必要とされる高さが45mから60mに引き上げられたわけである。なお、この規定は、2006(平成18)年の建築基準法改正で法第20条の構造耐力の規定の中に移されており、60m超の建物の構造計算の方法については国土交通大臣の認定が必要とされている。

 

1980年の新耐震基準の検討に際して、建設省は「新耐震設計法案」(昭和52年)や「建築基準法施行令・耐震関係規定改訂基準原案」(昭和54年)を作成しており、また、学識経験者・構造設計実務家等から構成される「耐震建築基準委員会」を建設省内に設置している。

その議論の中で60mの設定理由について言及されている可能性があるものの、筆者は確認をとっていない。

耐震基準という性質上、60mという数値は、集団規定の観点ではなく構造上の観点から導出されたと推測される。

 

ただし、1973(昭和48)年に日本建築学会が発行した「高層建築技術指針(増補改訂版)」によると、斜線制限や容積制限の制約から、現実の敷地で建設可能な高さは20階前後にとどまるとの見解が示されていることから、20階×階高3mと仮定すると60mを導き出すことができる。

また、避難階段設置義務の15階に階高を4mと仮定すると、15階×4m=60mになる。

60mの設定根拠としては、以上のような理由が考えられるものの、あくまでも推測に過ぎない。

 

一方、他法令を見ると、航空法において60mという数値が見られる。

航空法第51条の航空障害等設置義務の規定には、「地表又は水面から六十メートル以上の高さの物件の設置者は、(中略)当該物件に航空障害灯を設置しなければならない。」とある。

この規定は、1960(昭和35)年6月1日改正の航空法改正で追加された条文であるが、一般の建築物ではなく電波塔や発電所・工場等の煙突といった工作物を想定していたものであると考えられる。

というのも、当時の建築基準法には、まだ用途地域における31mの絶対高さ制限が残っており、60m超の建築物は国会議事堂を除き存在していなかったためである。

例外許可により建設されていた31m超の建物でも45m程度が限界であった。

なお、31mを超える高層建築物の建設が例外許可ではなく建設できるようになったのは、容積制による特定街区制度が創設された1961(昭和36)年の建築基準法改正後である。

 

 

[注]

(1)風致政令(風致地区内における建築等の規制に係る条例の制定に関する基準を定める政令)において、風致地区内における高さ制限値は8mから15mの範囲内で定めると規定されている。この15mは、生長した高木によって建物がほぼ隠れる高さとして決められたとされる(神奈川県都市部都市公園課(1994))。

(2)1970年の建築基準法改正まで行われていた用途地域の絶対高さ制限(20m、31m)の由来については、「市街地建築物法における絶対高さ制限の成立と変遷に関する考察-用途地域の100尺(31m)規制の設定根拠について-」(土地総合研究2008年冬号)を参照。

(3)京都市の高度地区については、「京都市における高度地区を用いた絶対高さ制限の変遷」(土地総合研究2010年夏号)を参照。

(4)1962(昭和37)年8月11日に建設省住宅局長から日本建築学会に対して「現行の高さ制限の改廃とそれに伴い必要とする法的措置について」諮問され、同年10月29日に建築学会から建設省に答申された。

それによると、高層建築物については以下のような見解が示されている。

「現行法においてはおおむね現行高さの制限を想定して諸規定が組立てられているので、早急に高層建築物に関する関係規定の整備が必要である。しかし、この種建築物の実例及び施工経験が少ない現段階においては、一般通則的な規定をただちに設定することは困難であると思われるので、当分の間は建築物の設計・施工法につき個々に審査指導する方途を考慮する必要がある。」(「建築物の高さ制限に関する本会の所見発表まで」『建築雑誌1962年12月号』)

(5)梅野(1965)p24

(6)当時の建築基準法第57条第1項には用途地域における絶対高さ制限(31m、20m)が規定されていたが、但し書きとして、「ただし、次の各号の一に該当する場合において、特定行政庁の許可を受けたときは、この限りでない。 一 建築物の周囲に広い公園、広場、道路その他の空地がある場合等であつて、交通上、安全上、防火上及び衛生上支障がないと認める場合」とあり、周辺に空地があれば特例許可により、31m超の建築物の建設は可能であった。

実際に、1953(昭和28)年には大阪第一生命ビル(高さ41.23m、12階)、1954(昭和29)年には渋谷東急デパート(高さ43m、11階)が完成している。

また、同時期に東京駅八重洲口に高さ47.8m、12階の鉄道会館が計画されていたが、なかなか許可が下りず、1954(昭和29)年に6階部分までが完成し開業したが、全体は1968(昭和43)年に竣工している。

(7)高層建築物構造審査会は、1964(昭和39)年9月に建設省に設置されたが、1965(昭和40)年8月に財団法人日本建築センターの設立とともに、審査会は日本建築センターに移管されている。当時の審査会の委員は15名で組織され、毎月1回開かれていたという。個々の審査にあたっては部会が設けられ、その都度専門委員が委嘱されていた。

 

[参考文献]

○梅野捷一郎(1965)「高層建築物構造審査会報告(その1)」『建築行政14(71)』、建築行政協会、p24‐27

○神奈川県都市部都市公園課(1994)『風致地区のあり方に関する20項目の提言:環境と共生した美しき都市の創造のために』神奈川県

○日本建築学会(1973)『高層建築技術指針 ―増補改訂版』日本建築学会

○大澤昭彦(2008)「市街地建築物法における絶対高さ制限の成立と変遷に関する考察-用途地域の100尺(31m)規制の設定根拠について-」『土地総合研究16(1)』、財団法人土地総合研究所、p51-61

 www.lij.jp/html/jli/jli_2008/2008winter_p051.pdf

○大澤昭彦(2010)「京都市における高度地区を用いた絶対高さ制限の変遷」『土地総合研究18(3)』、財団法人土地総合研究所、p181-210

 www.lij.jp/html/jli/jli_2010/2010summer_p181.pdf

 

芦屋市景観地区における不認定マンション問題のその後 -マンション計画の中止と山手幹線周辺における地区計画の策定ー

大原町地区地区計画の概要芦屋市大原町において、5階建てのマンション計画が景観地区の基準に不適合であるとして景観法に基づく不認定の処分が下された件については、以前の記事で述べた。

 

その後、不認定マンション計画は中止となり、大原町地区には高さ制限の強化をはじめとする地区計画が策定された。

しかし、この地区計画はマンション問題が直接的なきっかけではなく、市内を横断する山手幹線の整備を契機とするものであった。

そして、大原町だけでなく、山手幹線が貫通する他の地区においても同時的に地区計画の策定が進められていたのである。

 

そこで今回は、マンション計画が撤回された経緯とともに、大原町地区地区計画を中心に山手幹線周辺における地区計画策定の動向とその特徴について述べてみたい。

 

※「芦屋市景観地区においてマンション計画が不認定に -「高さ」ではなく「ボリューム」が問題に-」

http://www.hed-lab.jp/blog1/?p=396

 

 

<構成>

■大原町5階建てマンション計画不認定の経緯

■マンション計画の中止とその背景

■大原町地区地区計画策定の経緯

■大原町地区地区計画の概要

■山手幹線沿道における地区計画:道路整備を契機とした連鎖的な地区計画

■地区計画指定後の地価動向:大原町における地価上昇

■まとめ

 

 

■大原町5階建てマンション計画不認定の経緯

景観地区不認定問題は、2009(平成21)年秋に、大手マンション事業者が高さ15.45m(5階建て)、長さ41.3mのマンション計画を市に提出したことに始まる。

 

写真からわかるように、計画用地(敷地面積1,100㎡)周辺は、概ね2階建ての戸建て住宅地であることから、計画建物は周辺の建物に比して、高さ、規模が大きい。

 

芦屋市景観認定審査会における審議の結果、2010(平成22)年2月5日に、景観地区の基準に不適合であるため不認定処分を下すべきとの判断が示された。

不認定の理由として、「周辺の建築物に比べて著しく大きなスケールとボリュームを有するものである。このため,周辺の建築物や空間の形成するまちなみ景観とは著しく調和を欠く規模,形態であり,配置上も問題があるといわざるを得ない。」と結論付けている。

 

この景観認定審査会の判断を受けて芦屋市は、2月12日に当該マンションを不認定とする処分を事業者に通知した。

 

写真1 不認定処分を受けたマンション計画用地(2011年2月撮影)

 

 

■マンション計画の中止とその背景

不認定から約半年後の2010(平成22)年8月18日、市と事業者からマンション計画の中止が公表された。

 

事業者によると、5月下旬に大阪府内の個人に対してマンション用地を売却したという。また、「景観法を踏まえて市と協議し、建物の規模の縮小も含めて検討した結果、売却を決めた」と事業者はコメントしている(朝日新聞2010年8月19日)。

 

一方、芦屋市側は、「事業を阻害するつもりは全くなく、周辺の環境と調和した建設計画を出してくれることを期待していた残念だ」と話している(共同通信2010年8月18日)。

 

事業者がマンション計画を中止し、用地売却を決めた背景には、大原町地区で検討が進められていた地区計画の存在が大きかったと思われる。

不認定の翌月末には、地区計画の地元案がまちづくり協議会において承認されていたことからもわかるように、地区計画の案はマンション不認定の段階で概ね固まっていた。

4月には、地区計画の地元案がまちづくり協議会から芦屋市に提出され、これを受けて市は都市計画決定の手続きを進めている。

つまり、事業者がマンション計画を中止した8月時点では、地区計画の都市計画決定の手続きが行われている段階であった。

 

 

■大原町地区地区計画策定の経緯

大原町における地区計画策定の動きは、不認定マンションの計画が市に提出される約2年前に遡る。

 

後述するように、地区内を貫通する山手幹線の整備によって、周辺の住環境が急変する可能性があったことから、市が地区計画の策定を地元に働きかける。

それを受けて2008(平成20)年3月に「大原町まちづくり研究会」が設置され、まず初めに地権者に対するアンケートが実施されている。

アンケートの結果、地区独自のルールの必要性が確かめられたことから、2008(平成20)年11月には「大原町まちづくり協議会」が発足し、本格的な地区計画の検討が始まることになる。

 

その後、役員案の策定、意見交換会の開催、アンケートの実施等を経て、2010(平成22)3月28日に開催されたまちづくり協議会臨時総会において、地区計画地元案が権利者全体の76%の賛成で承認された。

 

そして、4月20日には地区計画地元案の要望書が市長に提出され、市の都市計画決定手続きを経て、11月22日に「大原町地区地区計画」として告示された。

 

表1 大原町地区地区計画・不認定マンションに関する出来事

 

 

 

■大原町地区地区計画の概要

大原町地区地区計画は、駅周辺の一部を除く約18.1ヘクタールを対象として、2010 (平成22)年11月22日に都市計画決定された。

戸建て主体の「住宅地区」、後背住宅地との調和を図る「幹線道路沿道地区」、そして周辺の住環境や景観との調和を目指す「近隣商業地区」の3つの地区に区分し、各地区は用途地域と対応している。

住宅地区は第1種中高層住居専用地域、幹線道路沿道地区は第1種住居地域、近隣商業地区は近隣商業地域で、いずれも指定容積率は200%である。

 

写真2 大原町地区の現状(左:近隣商業地区、中:幹線道路沿道地区、右:住宅地区)

 

地区計画では、建築物の高さ、用途、壁面位置、敷地分割時の最低敷地面積、緑化率、屋根・外壁の色彩、屋外広告物を規制しており、このうち用途、高さ、壁面位置、最低敷地面積については建築条例に定められており、法的拘束力の強い制限となる。

一方、緑化率、色彩、屋外広告物は条例化していないために、届出・勧告制による規制となるため、強制力は弱い。

 

具体的な制限内容は、下表のとおりであるが、各制限項目の特徴を簡単に述べる。

 

表2 大原町地区地区計画の内容

 

①絶対高さ制限:高度地区の強化(15m→10m・12mへ)

建築物の高さは、住宅地区は10mもしくは12m、幹線道路沿道地区は15mに制限される(近隣商業地区は高度地区による斜線制限のみで、地区計画での制限はない)。

 

住宅地区は、もともと第2種高度地区によって絶対高さ15mに制限されていたが、地区計画によって高さ10mに強化された。戸建て住宅主体の市街地形成を目指していることから、低層住居専用地域並みの高さ制限値としたわけである。

ただし、大規模な敷地の場合(敷地面積500㎡以上)は4階程度の集合住宅が建設可能な12mに緩和される。

 

高度地区による絶対高さ制限の場合、階段室等の屋上部分の高さは12mまで建築物の高さに算入されないが(建築基準法施行令2号1項6号ロ)、地区計画の10m、12mの制限には屋上部分の不算入措置はなく、屋上部分も含めた高さが10mもしくは12m以下に制限される。

 

また、住宅地区では既存不適格建築物の建替えにあたっては、従前の建物高さまでの再築が認められている(この救済措置は、1998年に西宮市の大畑地区地区で設けられたのがはじまりであり、芦屋市も隣接する西宮市の例を参考にしたとのことである)。

 

一方、幹線道路沿道地区は、従来、第3種高度地区により斜線のみの制限であったが、絶対高さ15mの上乗せ規制がかけられている。

住宅地区では、階段室等の屋上部分の高さは建築物の高さに含められていたが、幹線道路沿道地区では3mまでは算入されない。したがって、屋上部分も含めると15m+3m=18mまでは建築可能となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

図1 住宅地区における高さ制限の内容

 

②用途:店舗・ワンルームマンション等の禁止

住宅地区では、閑静な住宅地として環境を守るために、店舗・飲食店等の建築を禁止するほか、1戸当たりの住戸占有床面積40㎡未満の集合住宅、床面積500㎡以上の公衆浴場を規制している。

 

住戸占有床面積40㎡未満の集合住宅は小規模なファミリー向け住宅やワンルームマンション、また、500㎡以上の公衆浴場はスーパー銭湯を念頭に置いていると思われる。

小規模なファミリー向け住宅やワンルームマンションは賃貸住宅が多く、定住性も低く、地区の活動に参加してもらいにくいことも規制の背景にはあるとのことである。

なお、ワンルームマンション規制は、芦屋市住みよいまちづくり条例(以下、まちづくり条例)で規定されている制限を若干強化し、地区計画で担保したものである。

 

幹線道路沿道地区と近隣商業地区では、住宅地区と同じく床面積500㎡以上の公衆浴場を禁止とするほか、ガソリンスタンド、葬儀場を制限している。

葬儀場を規制する理由としては、1999(平成11)年に地区内において葬祭会館の建設計画が持ち上がり、住民による反対運動が起こったことが背景にある。

 

③敷地面積の制限:敷地分割後の最低敷地面積の規制(130㎡・150㎡)

これはいわゆる敷地面積の制限とは異なり、「敷地分割後の最低敷地規模」を規制するものである。したがって、敷地を分割しない場合には適用されない。

住宅地区のみを対象とした制限であり、具体的には、敷地面積2,000㎡の敷地を分割する場合は分割後の最低敷地面積が130㎡、2,000㎡以上の敷地を分割する場合の最低敷地面積は150㎡以上としている。

ただし、敷地面積2,000㎡未満の分割であっても、やむを得ない場合等においては1つの敷地に限って110㎡まで認める緩和措置が設けられている。

 

この制限は、まちづくり条例で規定されている制限を地区計画で担保するものであるが、地区計画では若干強化されている。

まちづくり条例を見ると、第1種・第2種中高層住居専用地域では、開発区域面積500㎡未満は最低敷地規模110㎡以上、500㎡以上2,000㎡未満は130㎡以上、2,000㎡以上は150㎡以上となっている。

一方、地区計画では、敷地面積500㎡未満であっても、まちづくり条例で規定する110㎡以上ではなく、ワンランク厳しい130㎡以上の規模を求めているわけである。

 

④壁面位置の制限:隣地境界線からのセットバック(1.0m、1.5m、2.0m)

外壁の後退距離を定める制限であるが、これは道路境界線側からの壁面後退ではなく、隣地境界線からのセットバックである。

これも敷地面積制限と同様に住宅地区のみを対象とした制限であり、敷地規模と高さが大きくなるほど、周辺の住環境への圧迫感等の影響を軽減する必要があることから、敷地規模別・高さ別に後退距離を定めている。

具体的には、敷地面積250㎡以上500㎡未満は1.0m、500㎡以上かつ高さ10m以下の場合は1.5m、500㎡以上かつ高さ10m超の場合は2.0mとなっている。

 

まちづくり条例では、第1種・第2種中高層住居専用地域における壁面後退を0.7m以上、地上階数が4以上または軒高10m以上の建築物は1.0m以上としていることから、この地区計画の制限はまちづくり条例の担保及び上乗せ規制であることがわかる。

 

⑤緑地率の制限:緑地率の最低限度10%

緑地率の制限は、住宅地区と幹線道路沿道地区を対象とする規制であり、敷地面積130㎡以上500㎡未満の場合は10%以上の緑化を義務付けている(緑化率には屋上緑化と壁面緑化は含まれない)。

 

まちづくり条例では、住居系用途地域(低層住居専用地域以外)の緑化率は20%以上としているが、敷地規模500㎡以上が対象となる。つまり、この地区計画では、まちづくり条例の対象外となる500㎡未満についても、条例の半分にあたる10%の緑化を求めることにしたわけである。

なお、130㎡未満については、負担も大きいとの住民からの要望があり、対象外になったという経緯がある。

 

地区計画における緑化率の制限に法的な拘束力を持たせるためには、都市緑地法第39条に基づく「地区計画等緑化率条例」を別途制定する必要があるが、この地区計画では条例化は行っていない。

 

⑥色彩の制限:景観地区の上乗せ規制

建築物の屋根と外壁の色彩は、地区計画区域全域が対象であり、芦屋景観地区に定める大規模建築物の色彩基準が適用される。

 

芦屋景観地区では建築物の規模に応じて基準を設定しており、高さ10m超かつ延床面積500㎡超の建築物を大規模建築物と位置付けている。

大規模建築物の基準は、その他の建築物と比べて厳しく設定されている。

つまり、大原町地区地区計画では、高さ10m以下または延床面積500㎡以下の建築物であっても、芦屋景観地区の大規模建築物の基準を満たすことが求められるわけである。

 

ただし、この色彩制限は建築条例に位置付けられていないために強制力の弱い緩やかな制限となる。

 

⑦屋外広告物の制限:県屋外広告物条例の上乗せ規制

屋外広告物の制限も地区計画区域全域でかけられているが、これは兵庫県の屋外広告物条例の規制を強化した内容となっている。

住宅地区である第1種中高層住居専用地域は、県屋外広告物条例では第2種禁止区域に指定されており、自家用広告物の表示面積が計20㎡以下、自家用広告物の枚数が4枚以下等の制限が適用される。

この地区計画では表示面積合計が3㎡以下、かつ、枚数は3枚以下と大幅に強化されている。また、広告物の高さも地上から3m以下に制限されるほか、色彩制限(地色に彩度10以上の色の使用禁止)も加えられている。

 

また、幹線道路沿道地区と近隣商業地区は、エリアの特性上、屋外広告物の面積、枚数等は制限されず、色彩制限のみ(住宅地区と同じ内容)が規定されている。

 

 

山手幹線沿道における地区計画:道路整備を契機とした連鎖的な地区計画

前述のように、大原町地区の地区計画は、不認定マンションの計画が表面化する以前から検討が開始されていた。

つまり、地区計画策定の直接的なきっかけはマンション問題ではないことになる。

では、なぜ大原町地区において地区計画が策定されることになったのだろうか。

 

先に述べたように、地区計画策定のそもそものきっかけは、市内を横断する山手幹線の整備であった。

山手幹線は、神戸-尼崎を結ぶ幹線道路であり、1946(昭和21)年に都市計画決定され、65年後の2010(平成22)年10月24日にようやく全線が開通している。

 

山手幹線の全線開通に伴い、スーパー銭湯、ガソリンスタンド等のロードサイド型の利便施設の立地が予想されたが、道路が市内の住宅地内を貫通することから、周辺の住環境への影響が懸念された。

そこで芦屋市は「芦屋市都市計画マスタープラン」(2005年策定)において、山手幹線周辺のうち、「沿道型住宅地」を「低層又は中層住宅の整った沿道景観の形成」を図る地区とする一方、「中低層住宅地」を「現在の低層戸建住宅中心の居住環境を保全」するために高さ制限や宅地細分化の防止等を行うとし、これらの方針を実現する手段として建築協定や地区計画等の活用を明文化している。

 

こうした背景から、芦屋市は、山手幹線が横断する地区に対して地区計画の策定を働きかけたのである。

対象エリアは、大原町地区だけではなく、JRと阪急神戸線の間に挟まれた三条町、西芦屋町、月若町、松ノ内町、船戸町、大原町、親王塚町、翠ヶ丘町の8地区が全て対象とされた(図1)。

 

市の働きかけを受けて、各地区は自治会を単位とするまちづくり協議会を設立し、具体的な地区計画の内容を検討していくことになる。

まちづくり協議会では、地権者等へのアンケートの実施、素案の策定、意見交換会の開催等を経て、地区計画の地元案を確定し、市は地元案に基づいて都市計画決定を行う形で進められている。

 

2011(平成23)年9月末時点で、8地区中7地区で地区計画が告示済みであるが、概ね協議会設立から約2年程度で都市計画決定に至っている(親王塚町地区では現在、協議会の案が検討中)。

地元案の採決にあたっての同意率(権利者数に占める賛成者の割合)を見ると、市が目安としていた3分の2(約66.6%)の同意率を満たしていることがわかる。

図2からわかるように、権利者数が多いほど同意率が低減しているが、大原町の同意率が権利者数の多さに比べて高いのは、不認定マンション問題の影響と考えられる。

 

各地区計画の内容を見ると、大原町と制限内容はほぼ共通するが、地区の特性や合意形成を踏まえているため若干の違いは見られる(詳細は、別の機会に紹介したいと思う)。

 

表3 山手幹線周辺における地区計画の一覧

 

図2 山手幹線周辺における地区計画位置図

 

 

図3 地区計画案の同意率と権利者数

 

 

 

■地区計画指定後の地価動向:大原町における地価上昇

2011(平成23)年7月1日時点の都道府県地価調査の結果によると、大原町の地価上昇率(対前年平均変動率)は+1.9%で、全国でも高い上昇率を示している。

グラフから分かるように、兵庫県、阪神南、六麓荘町(いずれも住宅地)の地価変動率が全てマイナスであることを見ても、大原町の伸びが際立つ。

 

おそらく前年の10月に全面開通した山手幹線の影響が大きいと思われるが、高さ制限の強化を含む地区計画が地価形成に寄与しているとも考えられる。

地価と地区計画との関係を論ずるには、ヘドニックアプローチ手法等による定量的な分析が必要であると思われるため、軽々に判断することは控えるべきであろうが、少なくとも地区計画が地価にマイナスに作用していないとは言えるのではないだろうか。

 

 

図4 対前年比平均地価変動率の推移(各年都道府県地価調査)

 

 

■まとめ

芦屋市大原町で不認定となったマンション計画は結局中止となり、その後、高さ制限の強化をはじめとする大原町地区地区計画が策定された。

ただし、この地区計画の策定は、不認定マンションが直接のきっかけではなく、市内を横断する山手幹線の開通を契機としたものであった(もちろん不認定マンションの存在が地区計画策定の推進力にはなったと思われるが)。

 

山手幹線の整備に伴い、沿道周辺の住環境への影響が懸念がされたことから、市は、山手幹線が貫通する地区に対して、地区計画の策定を働きかけたわけである。

そのため、大原町地区だけではなく、山手幹線周辺の地区においても連鎖的な地区計画の策定が進んでおり、既に計7地区で策定済みである。

 

山手幹線周辺における地区計画の特徴は、市が地元に積極的な働きかけ、それを受けた地元の協議会が地区計画案を市に提案している点である。

つまり、きっかけは行政からのトップダウンであっても、具体的な内容の検討は地元からのボトムアップということである。

トップダウンだけでは行政の押しつけになりがちとなり、逆にボトムアップによる地元の動きを待つには時間がかかり過ぎる。

その点、芦屋市においては、市と地元の役割分担がうまくいったがゆえに、速やかな地区計画指定が実現したと言えるだろう。

 

また、地区計画の内容面での特徴を見ると、従来の都市計画規制(用途地域、高度地区)の上乗せ規制であることに加えて、市の自主条例である住みよいまちづくり条例の基準強化及び担保である点が指摘できる。

こうした高度地区やまちづくり条例の運用実績があったからこそ、地区計画による制限強化に対する住民の理解が得られ、複数の地区計画策定を同時的に進めることが可能だったのではないだろうか。

 

未だに、規制強化は土地利用の足かせとなり、資産価値を損なうとの意見は少なくない。

しかし、先に見た都道府県地価調査の結果からわかるように、地区計画が住宅地の価値を下支えしている可能性は十分にある。

適切なルールの存在は、地域の価値の担保・向上に寄与するのである。

 

 

 

<関連記事>

○芦屋市景観地区においてマンション計画が不認定に -「高さ」ではなく「ボリューム」が問題に-」

http://www.hed-lab.jp/blog1/?p=396

 

<参考資料>

○芦屋市における地区計画

http://www.city.ashiya.lg.jp/toshikeikaku/kuiki.html

○芦屋市における景観地区

http://www.city.ashiya.lg.jp/toshikeikaku//keikan/minamiasiya/index.html

○芦屋市住みよいまちづくり条例

http://www.city.ashiya.lg.jp/toshikeikaku/kaihatsu_05.html#sinseisyoitiran

○芦屋市都市計画審議会会議録(検討資料も見ることができる)

http://www.city.ashiya.lg.jp/toshikeikaku/fuzokukikan/toshikeikaku-kaigiroku.html

 

景観と公共性:”失われた景観”の回復に向けて

■「失われてきた景観」という言説の背景

 

これまで景観や風景に関わる問題は、主に建築や都市計画の専門家によって語られてきた。

しかし、近年、様々な分野の人達が、日本の景観や風景について積極的に発言している。

例えば、水村美苗(小説家)の「日本語が亡びるとき」、アレックス・カー(日本・東アジア美術・文化の専門家)の「犬と鬼」、中島義道(哲学者)の「醜い日本の私」、東郷和彦(元外務官僚)の「戦後日本が失ったもの」、松原隆一郎(経済学者)の「失われた景観」などが挙げられる。

主な主張は下記に示すとおりであるが、「戦後日本は、開発と経済発展のためにひたすら走り続け、多くの成果をあげた。しかし、その過程で、敗戦と廃墟によって再興できたかもしれない日本の原風景を失った」との東郷和彦の言葉に代表されるように、いずれの著書も近代化による経済成長が、日本から大事なエートスを奪い、その失われたものの象徴として「景観・風景」を語っている。

また、著者の多くが、高度成長期直前に幼少期を過ごし、戦後日本の歩みとともに成長しながら、景観が失われていくのを目の当りにしてきた世代であるのは偶然ではないだろう(海外生活が長い人が少なくないとの共通点もある)。

 

「日本人がみな安吾[引用者注:坂口安吾]のように、いくら文化財など壊しても「我々は・・・日本を見失うはずはない」と思っているうちに、日本の都市の風景はどうなっていったか。建築にかんしての法律といえば安全基準以外にないまま、建坪率と容積率の最大化を求める市場の力の前に、古い建物はことごとく壊され、その代わりに、てんでばらばらな高さと色と形をしたビルディングと、安普請のワンルーム・マンションと、不揃いのミニ開発の建売住宅と、曲がりくねったコンクリートの道と、理不尽に交差する高架線と、人が通らない侘しい歩道橋と、蜘蛛の巣のように空を覆う電線だらけの、何とも申し上げようのない醜い空間になってしまった。散歩するたびの怒りの悲しみと不快。」(水村美苗「日本語が亡びるとき」p311)

 

「容積率と日照権に、屋上の空ボックス[引用者注:屋上工作物?]を促進するルールを加えると、その結果、日本特有の混沌とした都市景観になる。おまけにゾーニングや看板の規制もなく、自動販売機が氾濫し、電線が上空を覆い、日本の街並みを特徴づける雑然とした眺めが生まれる。くつろげる公園も、落ち着いた街路も少なく、ごたごたと立ち並ぶビルもやはり看板や電線で覆われている。

 この雑然とした風景がすっかり当たり前になってしまい、日本の建築家にはこれ以外の風景は想像もできなくなっている。数多くの庭園があり、整然と区画りされていた古都京都や北京、ペナン、ハノイの例を持ち出すまでもなくその反証がいくらでもあるのに、木陰もない都市がどういわけか「アジアらしい」ものとして正当化されている。」(アレックス・カー「犬と鬼」p204)

 

「中央線沿線の西荻窪や阿佐ヶ谷、井の頭線沿線の久我山や浜田山、京王線沿線の千歳烏山や下高井戸、そして都心の本郷や神田神保町など、私がよく知っているごく普通の商店街はただただ猥雑であり、徹底的に不調和なだけである。

 美意識のまるでない不調和な家並みが続き、その側面や屋根には建物に不釣り合いの巨大な原色の看板が取り付けられており、ことのほか安っぽいセルロイドの桜や紅葉が五メートルおきにぶら下がり、歩道には店の棚が溢れ出し、各店頭には盲人用の黄色い点字ブロックもお構いなしに、そして入るのに難儀するほどの夥しい自転車が停めてあり、いたるとことに旗が、垂れ幕が、横断幕が風に靡いている。空き地には、金網にびっしりと金貸しや水商売勧誘の広告が張られており、各商店からはスピーカーが鳴り響き、そして両脇にはコンクリートの電柱がそびえ、頭上には黒々と幾重にも絡み合いもつれ合って電線が延びている。」(中島義道「醜い日本の私」p44)

 

「視線を電線で区切られず、そぐわぬペンキを塗られず、景色により自分の居場所が分かり、せめて旅行先では看板の洪水にみまわれず、暮らしている町では過去との連続を実感していたい―私が景観に望むのは、そうした些細なことである。それは私にとっては心身の健全さにかかわることと思えるのだが、それが世の共感を得られぬ望みであるのか、贅沢にすぎる願いであるのかは、よく分からない。ともあれ私が「景観が崩壊しつつある」というときに想定しているのは、もっぱらこうした生活圏における景観の変化と、それから体感される不快感のことなのである。少なくとも私の身体は、それを不快と感じるのだ。(中略)私が日々の暮らしで手放しがたく考える景観は、経済活動によって危機にされされているのである。」(松原隆一郎「失われた景観」p16-17)

 

景観や風景が生活や環境の質を表す指標のようなものであるとするならば、景観が壊されるということは、生活の基盤が損なわれることを意味し、さらには、自らの拠り所(アイデンティティ)を失うことにもつながる。彼らの言説の背景には、そうした不安感があるように思う。

 

実際に日本の景観が損なわれてきたか否かの議論はとりあえず脇に置くとして、ここでは、「日本において景観が損なわれきたと認識する人々が少なくない」という事実に注目したい。

このことは、右肩上がりの成長を前提とした量的拡大の都市政策から、環境の質の充実へと人々の関心が向っていることと関連しているとも言えるだろう。

2006(平成18)年をピークに人口は減少を開始しており、本格的な人口減少社会に向かっている中、経済的な成長や拡大ではなく、安定的に暮らし続けられる環境を如何に構築、維持していくかが求められており、そうした営みの結果として立ち現れてくる「景観」は、環境の価値を示す重要な要素の一つとなるのではないか。

2004(平成16)年に景観法が制定されたのも、そうした人々の意識を反映したものといえるだろう。

 

しかし、人々の関心が景観に向っているとするならば、なぜ日本の景観が失われてきたのかを考える必要がある。

その要因の一つには、公共的な空間に対する人々の意識の問題が関係していると思われるのである。

 

 

■日本と西欧における公共性に対する認識の違い

 

芦原義信は、いまや古典ともいえる景観論である「街並みの美学」の中で、欧米において街路は家の一部であると認識されているが、日本においては外部空間が家の一部といった感覚はないのではないかと指摘している。

つまり、日本においては、自分の家を一歩出てしまえば、自分とは関係ない空間であるという意識が強いというわけである。

 

この芦原の指摘は、欧米と日本における「公public」と「私private」の捉え方の違いによって説明することができる。

公共法学者の寺尾美子は、日本における「公」と「私」は上下の関係を示す概念であり、「公」は常に上位概念であったと述べる。これは、国や役所を「お上」と呼ぶことに典型的に現れていると言えるだろう。

一方、欧米では、”public”と”private”の間に上下の関係はなく、社会の構成員全体、つまり「私」の寄り集まった総体が「公」となるとの認識があり、国や役所は「私」の総体としての「公」に奉仕する存在として位置づけられてきた。

 

つまり、「公」の一角を「私」が担っているという自覚に乏しい点が、日本的な公共性の問題と言えだろう。

例えば、本来、都市計画や景観に関わるルールは、より良い環境をつくるために実施するものである。

しかし、日本においてルールとは、著しく土地所有権を侵害するものであり、できるだけ制限が少ないことを求める。自由に好きなものを建てることができることは権利であるとの認識である。

これらは、「土地所有権の強さ」「私的所有権の絶対性」といった言葉でこれまで指摘されてきた点である。

 

 

 

 

 

 

 ■公共財としての景観:「建物の美しさはすべての人に帰属する」

 

もちろん欧米でも、自由に好きなものを建てたいと望む人々は多いかも知れない。

しかし、ルールを守ることによってつくられる環境を自らが享受しているとの実感があること、またそうした環境を享受することは自らの権利であるとの認識を彼らが有していることは大きな相違点と言えるだろう。

なぜなら、芦原の言うように、欧米の人々にとって公共的な空間は「家の中」との認識を持っており、公共的な空間は自らの空間でもあるためである。

 

フランスの作家・ヴィクトル・ユゴーは、「一つの建物には二つの要件がある。建物の効用と、建物の美しさである。効用のほうは、建物の所有者に帰属するが、建物の美しさはすべての人に帰属する(※1)」と述べている。

また、前出の東郷和彦の著書には「建物の外観は公共財ですから」という建築家・吉良森子の言葉が紹介されている。

 

つまり、建物は私的な存在であると同時に公的な存在でもあるという考えは、矛盾しない概念なのである。

欧米では、「公」は自らが担っているという意識が根底に横たわっているため、環境を守り育てるためのルールも自分たちがつくっているという実感が、ルールを受け入れる土壌にあるといえるだろう。

 

一方、日本においては、住民参加のまちづくりが定着しつつあるとはいえ、「公」=「官」であるとの認識が根強いために、ルールは他人から押し付けられるものと感じてしまうことになる。

 

日本の景観が損なわれていくことを嘆く人々が増えていると思われるものの、まだまだ景観に無関心な人々が大多数なのではないかとの疑問もある。

大きさもデザインもばらばらに建てられた建築物、屋外広告物、電線・電柱が覆う現在の姿を見て、「問題」であると認識している人がどれくらいいるのであろうか。

また、冒頭に挙げた景観問題を語る人々は、失われる前の景観を知っている世代だからこそ、危機感が共有できるのかもしれないが、若い世代にとってみれば、物心がついた時には既に景観は失われているのである。いわば、拠り所がない中で、危機感を共有するのは容易ではないだろう。

 

つまり、ルールも景観も自分に直接関わることとして考える人が少なく、公共的な空間は「官」がつくる空間であるとの認識が、現在の日本の風景を規定してきたように思えるのである。

 

 

■「モッタイナイ」精神がもたらす景観問題

 

上述した日本における景観問題は、近年、環境分野において定着しつつある「モッタイナイ(MOTTAINAI)」という言葉と大きく関わっているように思われる。

使えるものは無駄にしないというモッタイナイ精神は、まちづくりにおいても有用であろう。

例えば、歴史的な建造物といった景観資源やそれらを核とした街並み景観は、一度壊されてしまうと取り戻すことが難しく、地域にとって「モッタイナイ」ことから、可能な限り残すことが望ましいだろう。

しかし、こうした美点の裏には、モッタイナイ精神が抱える問題があるように思えるのである。

 

例えば、我が国の都市を眺めて見ると、看板やのぼり旗といった屋外広告物の類が散見され、景観を損ねる大きな要因となっている。

こうした屋外広告物の景観は、実は「モッタイナイ」精神の賜物といえる。

 

せっかくの空いている場所が「モッタイナイ」から、看板やのぼり旗などが設置される。

また、せっかく屋外広告物を出すなら、目立たなければ「モッタイナイ」から、できるだけ大きくそして派手な色彩の広告を設置するのである。

 

さらに建築物においても、「モッタイナイ」精神はいかんなく発揮される。

我が国において建物の規模は、主に容積率によって規制されているが、指定されている容積率を使わなければ「モッタイナイ」から、周辺の環境とは関係なく、地権者や事業者等は容積率を使い切るように最大限の努力を払う。

 

このように、「モッタイナイ」精神は、闇雲に空間を埋める作業を通じて日本の景観を悪い方へと誘ってきたのではないか。

モッタイナイ精神は、私的な空間の連なりが公的な空間をつくるという観念の欠如、つまり私的空間を公共財の一部とする認識の欠落をはらんでいるとも思われるのである。

 

 

■「景観」から「都市公景」へ :コミュニケーションとしての建築、景観づくり

 

景観とは、都市に暮らす人々の営為の産物であり、結果である。

個々の営みが都市の姿を形作るということは、私的空間の積み重ねが公的空間をつくるという、本来の意味でのpublicのあり方に関わってくる。

 

個々の建設行為は、良くも悪くも周辺の街へ影響を与える。

つまり、自らの行為が他者へ影響することを意識することが景観をつくる上で求められる。

いわば、建設行為もコミュニケーションの一つであり、こうしたコミュニケーションの蓄積がコミュニティを醸成するのである。

したがって、景観は、単なる表面的な「見た目」だけを指すのではなく、コミュニティにおける生活のありようも内包するものでもある。

 

そして現在、建築行為を通じたコミュニケーションの作法が求められており、その作法とは、街の物理的な姿を操作することにとどまらず、街の姿を生成するプロセスそのものに対する作法なのである(※2)。

 

 

景観が、個々の営為の蓄積により醸成される公共空間そのものであるとするならば、それは真の意味で言う公共の景観、「都市公景」と呼ぶことができるだろう。

「都市公景」という概念は、個々の行為が公共的な空間に影響を与え、責任を持つことを意味すると同時に、デザインを通じたコミュニケーションの作法の拠り所となる考え方でもある。

そして、都市公景のデザインには、「私」を制限するという発想ではなく、「公」を育み、確保するという発想が求められる。

 

今から約20年前の1989(平成元)年に制定された「土地基本法」には、土地利用における「公共の福祉の優先」が明記された。

ここでいう「公共の福祉」とは、国や自治体の公共事業が個々の土地所有に優先するというような矮小化された意味で解釈されるべきではなく、豊かな「都市公景」の創出を優先するということであり、その受益者は他でもない我々一人ひとりの国民であると捉えるべきであろう。

 

※1 ジョセフ・L・サックス「「レンブラント」でダーツ遊びとは」より引用。

※2「美しいとされる伝統的な街並みとは、実は、進化と競争原理のもとに意匠を磨かれてきた結果として存在しているにもかかわらず、今日、規範として参照されるのは、意匠の生成システムではなく、その結果だけであるという点に、根本的な限界があるように思います。」(斉藤潮等(2005))。

 

<関連記事>

「モッタイナイ(MOTTAINAI)」の功罪 ~景観まちづくりの観点から~

http://www.hed-lab.jp/blog1/?p=120

 

<参考文献>

水村美苗(2008)「日本語が亡びるとき」、筑摩書房

アレックス・カー(2002)「犬と鬼 -知られざる日本の肖像」、講談社

中島義道(2006)「醜い日本の私」、新潮社

東郷和彦(2010)「戦後日本が失ったもの -風景・人間・国家 」、角川書店

松原隆一郎(2002)「失われた景観 -戦後日本が築いたもの 」、PHP研究所

芦原義信(2001)「街並みの美学」、岩波書店(岩波現代文庫版)

寺田美子(1999)「都市計画における公共性・法・参加 : 「強い」土地所有の克服に向けて」『都市問題90(6)』、pp. 19-34、市政調査会

ジョセフ・L・サックス(2001)「「レンブラント」でダーツ遊びとは ―文化的遺産と公の権利」、岩波書店

斎藤潮等(2005)「環境と空間文化―建築・都市デザインのモチベーション 」、学芸出版社

 

 

庭園からの眺望景観保全(その1) -旧古河庭園周辺における絶対高さ型高度地区について―

 

2011(平成23)3月10日、ジョサイア・コンドル設計の洋館や庭園等で知られる旧古河庭園(国の名勝指定)周辺エリアに、絶対高さ型高度地区が指定された。

この高度地区は、庭園からの眺めや周辺の住環境を守るために、庭園周辺の建築物の高さを35mに規制するものである。

 

○北区ホームページ http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/inform/638/063811.htm

 

また、旧古河庭園の近くには、JR駒込駅を挟んで文京区側に六義園(国の特別名勝指定)がある。

六義園周辺においても、同じく庭園からの眺望景観保全を目的に絶対高さ型高度地区がかけられており、こちらは2004(平成16)年に指定されている。

 

旧古河庭園と六義園の高度地区はともに、庭園からの眺望景観保全を意図したものであるが、こうした高さ制限を実施する背景にはどのような理由があるのだろうか。また、具体的にどのような制限を行っているのだろうか。

 

本稿では、3回にわけて、周辺を対象とした絶対高さ型高度地区の内容を概観し、庭園から眺望保全のための高さ制限の特徴と課題について考えてみたい。

 

1.旧古河庭園周辺における絶対高さ型高度地区(北区):その1

2.六義園周辺における絶対高さ型高度地区(文京区):その2

3.旧古河庭園と六義園周辺の高度地区の比較:その3

 

 

1.旧古河庭園周辺における絶対高さ型高度地区(北区)

 

 

■旧古河庭園について

現在の旧古河庭園は、もともと1917(大正6)年に古河家(古河財閥)の邸宅としてつくられたものであり、1956(昭和31)年に都立公園として一般に公開されている。

 

この庭園は、武蔵野台地の地形の高低差を活かしたつくりとなっており、台地の突端に建てられた洋館の前面に、階段状の洋風庭園が斜面に沿って配置され、さらに低地部分に日本庭園が配されており、地形差が開放的な眺めをつくりだしている点が特徴的である。

 

洋館と洋風庭園は、日本近代建築の礎を築いたイギリスの建築家ジョサイア・コンドルが設計したものであり、日本庭園は小川治兵衛の作庭による(写真1)。

 

 

 

 

 

写真1 旧古河庭園(左:洋館、中:洋風庭園、右:日本庭園)

 

 

 

■絶対高さ型高度地区指定の背景

高度地区指定のきっかけは、「旧古河庭園周辺が東京都景観計画による文化財庭園等景観形成特別地区に指定されたこと」と「高層マンションによる近隣紛争が発生していたこと」の2点が挙げられる。

 

①東京都景観計画による文化財庭園周辺の景観誘導

東京都景観計画で旧古河庭園周辺が文化財庭園等景観形成特別地区に指定されたことが高度地区指定のきっかけとなった(平成20年4月の景観計画改定で追加指定)。

 

文化財庭園等景観形成特別地区とは、「国際的な観光資源としてふさわしい庭園からの眺望景観を保全し、歴史的、文化的景観を次世代に継承する」ことを目標に、庭園を含む周辺エリアを地区指定し、庭園の周りに立地する建築物や広告物の規制・誘導を行うものである。

 

現在の計画では、旧古河庭園のほか、浜離宮庭園、芝離宮庭園、新宿御苑、六義園、旧岩崎邸庭園、小石川後楽園、清澄庭園といった8箇所の都立庭園や国民公園を文化財庭園等景観形成特別地区に指定されている。

○東京都景観計画(文化財庭園等景観形成特別地区)

http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/kenchiku/keikan/keikaku13.pdf

 

 

 

 

 

 

写真2 洋館前から庭園全体を望む

 

 

<旧古河庭園周辺の景観形成基準の特徴>

高さ20m以上の建築物等は景観法に基づいて都知事に届け出る必要があり、「配置」「高さ・規模」「形態・意匠・色彩」「公開空地・外構等」「屋根・屋上」の5項目の景観形成基準を満たすことが求められる(また、高さ20m以上の部分に設置する屋上広告物の設置は禁止されている)。

これらの基準のうち、高さ・規模については、「庭園内部の主要な眺望点からの見え方をシミュレーションし、庭園からの眺望を阻害する高さや規模とならないように配慮する」「庭園外周部と隣接している敷地においては、庭園外周部の樹木の高さを著しく超えることのないよう計画する」と規定されている。

 

この基準の特徴は、1)数値基準ではなく、文言による定性的な基準であることであり、また、2)庭園内部から「見えない」ように高さを抑えるのではなく、眺望を阻害しない高さとすることを求めていること、の2点にあると言えるだろう。

そのため、高さ以外の要素、例えば、隣棟間隔の確保による開放感の維持や壁面の分割による圧迫感の軽減等の基準を併せて設置することにより、眺望を阻害しない見え方のコントロールを行っているわけである。

 

<東京都景観計画の問題点>

しかし、東京都景観計画の制限では十分な眺望景観の確保が難しいとの判断※2に加えて、「北区都市計画マスタープラン2010」においても、旧古河庭園周辺では建物高さの規制・誘導により庭園からの眺望景観の保全を行うと位置づけていたことから、北区は高度地区の指定に踏み切ったのである。

 

東京都の制限が十分でないと北区が判断した理由は大きく2つが考えられる。

一つは、景観形成基準が基本的に定性的な内容であり、庭園からの眺めを阻害しない高さが明示的ではないことである。

二つ目は、景観法に基づく景観計画はあくまでも届出・勧告制であるため、建築基準法に基づく建築確認のような法的拘束力は弱いという欠点があることによる。

より実効的な眺望保全を行うには、数値基準による強制力のある手段による制限が求められたわけである。

 

※注2 第20回東京都北区都市景観づくり審議会(2009年8月20日開催)におけるまちづくり部参事の発言

http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/service/065/atts/006536/attachment/attachment_1.pdf

 

②高層マンションによる近隣紛争

高度地区指定のもう一つの背景には、旧古河庭園周辺で高層マンションの立地が進み、近隣紛争が起きていたことである。

旧古河庭園が面している本郷通り沿道は、商業系用途地域で指定容積率が400・500%と開発ポテンシャルが高いエリアであるが、写真を見てもわかるように、基本的には低中層の建物が建ち並んでいる(写真3)。

 

写真3 旧古河庭園周辺における本郷通りの現状

(左:近隣商業地域・容積率400%、右:商業地域・500%)

 

しかし近年、13階、14階程度の高層マンションが増えつつあり、現在、10階建て以上のものは5棟あり、さらに2つの高層マンション計画が進行中である(2011年9月時点)(注1)。近隣紛争が起きていた(写真4)。

 

本郷通りの後背地(主に第1種中高層住居専用地域で容積率150%)は、ほぼ2階建ての戸建て住宅地が広がっているために、高層マンションは日照条件や圧迫感等を悪化させるとして、近隣住民から反対の声が聞かれるようになったのである(写真5)。

例えば、旧古河庭園入口近くに建つマンションは、当初14階建てで計画されていたが、住民の反対もあり、13階建てに変更されている。

 

こうした高層マンションを巡る紛争は、庭園からの眺望景観の阻害というよりは、周辺住環境への影響が問題視されており、商業地域と後背の住宅地域との指定容積率のギャップが紛争を招いていたと言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真4 本郷通りで近年建設された高層マンション

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真5 本郷通りの後背地の状況

(左:近隣商業地域・容積率300%、右:第1種中高層住居専用地域150%)

(注1)2件のうち、1件は13階建・39.93m、もう1件は11階建・34.96mである。前者の高さが35mを超過しているのは、この物件が絶対高さ型高度地区決定前に建築確認申請されたことによる。

 

 

 

■旧古河庭園周辺高度地区の内容

2011(平成23)年3月10日、東京都景観計画で位置付けられた旧古河庭園からの眺望景観保全と本郷通り沿道の後背地における住環境の悪化の防止等を目的として、本郷通り沿道の約5.2haを対象に35mの絶対高さ型高度地区が指定された。

なお、北区内では、絶対高さ型高度地区の指定以前から、住居系用途地域や一部の近隣商業地域等において北側斜線制限による高度地区が指定されている。

今回の35m高度地区の指定区域は、この斜線型の高度地区が指定されていなかったエリアである。

 

35m高度地区区域

<参考>35m高度地区の周辺区域

高度地区

35m高度地区(絶対高さ型)

第2種高度地区(斜線型)

第3種高度地区(斜線型)

用途地域

商業地域

近隣商業地域

第1種中高層住居専用地域

近隣商業地域

指定容積率

500%

400%

150%

300%

 

 

 

 

①本郷通り沿道の商業系のみの指定

35m高度地区の指定区域は、旧古河庭園周辺のうち、本郷通り沿いの商業地域(容積率500%)、近隣商業地域(同400%)に限っているため、東京都景観計画の景観形成特別地区のエリアの一部のみとなっている。

エリアを限定した理由は、周辺区域は、指定容積率が150%のエリアが大半であり、既に斜線制限による高度地区や日影規制によって、そもそもあまり高いものが建設されないとの判断に基づくものである。

 

とはいえ、区の都市計画審議会では、指定エリアが限定されている点を疑問視する意見も出されていた。

それに対して、区は、旧古河庭園周辺のみではなく、全域的な指定も視野に入れていると回答している。

区の展望としては、まず1)景観形成特別地区内で絶対高さ制限をかけてから、2)飛鳥山公園前をはじめとする本郷通り全体に拡大し、3)区の基本的な考え方を固めた上で全域的に指定していく、といった段階的な絶対高さ型高度地区の指定意向を持っているようである(六義園周辺にスポット的な絶対高さ型高度地区を指定している文京区は、区全域に絶対高さ制限区域を拡大する予定であるが、それについてはその2で説明する)。

 

○第87回北区都市計画審議会議事録(2011年2月2日開催)

http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/service/005/atts/000561/attachment/attachment_1.pdf

 

②高さ制限値35mの理由

 

<「35m」の設定根拠>

高さ制限値は、区域一律で35mとしている。

この数値は、1)庭園からの眺望が保全される高さ、2)既存の建物の高さ、3)指定容積率が消化可能な高さ、4)隣接区における制限値といった要素を考慮しながら設定したとのことである。

隣接区における制限値とは、文京区の六義園周辺に指定された高度地区の制限値35mである。

 

区によると、制限値の検討にあたっては、写真によるシミュレーションを行っており、35mラインでの眺望への影響を確認しているとのことである。

シミュレーションの結果、35mラインでは、庭園の樹木の高さを超えて見えることになるが、指定容積率が400、500%と高い区域であり、都市計画マスタープランにおいても「本郷通り沿道は沿道建物の耐震化と一定の高度利用を図る区域」と位置付けていることを鑑みて35mに決定したわけである。

規制前には、14階程度(約45m)のマンションが建設されていたことから、規制がない時に比べると眺望への影響は軽減されるだろう。

 

例えば、写真6は、洋風庭園から洋館を望む眺めであり、洋館の右奥に13階建てマンション(約40m)が見える。

35mの高さ制限がかけられたことで、洋館と樹木がつくるスカイラインが著しく損なわれる懸念がなくなったと言えるだろう。

 

また、庭園内の展望台(あずまや)から南側を眺めると、15階建のマンション(約45m)の8階から15階までの部分が庭園の緑の背景に見えるが、35m制限によって、緑から突出して現れる部分が減少することが期待できるだろう。(写真7)。

 

写真6 洋風庭園から洋館を望む

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真7 庭園内の展望台付近の眺め(15階建マンションの8層分が庭園の緑から突出して見える)

 

 

<「35m」制限の問題点>

しかし、35mの制限がかけられていても、場所によっては、庭園からの眺望に大きな影響を与えることが想定される。

 

例えば写真8は洋館前の芝生の広場から北側を眺めたものである。

庭園入口前に建つ13階建のマンションはヒマラヤ杉に隠れて見えないが、沿道のその他の敷地で35mの建物が建ち並んだ場合、庭園の背景に建物が大きく視野に入ってくることは避けられないと思われる(洋館とヒマラヤ杉の間に建物が見えてくることが想定される)。

 

その際、東京都の景観計画が定める「庭園からの眺望を阻害する高さや規模とならないように配慮する」「庭園外周部の樹木の高さを著しく超えることのないよう計画する」といった定性的な基準との関係をどのように判断するのであろうか。

つまり、高度地区の定量的基準(35m)は満たすが、景観計画の定性的基準は満たさないと思われるケースに対して、どう対応すべきかといった問題が生じる可能性がある。

 

 

 

 

 

 

写真8 芝生の広場から北側を望む(13階建のマンションはヒマラヤ杉の背景に隠れて見えない)

 

 

③高さ制限の例外規定の設置

35m高度地区の指定に際しては、高さ制限の適用除外を認める例外措置の規定も設けられている。

主なものは、既存不適格マンションの建替救済措置と地区計画・景観地区区域内の適用除外措置の2つである。

 

<既存不適格マンションの建替救済措置>

この絶対高さ制限によって3棟のマンションが既存不適格となっているが、建替えを行う場合は、現在の高さまでつくることを可能としている。

こうした既存不適格建築物の建替え救済措置は、近年絶対高さ型高度地区を導入している自治体の大半が設置しているが、その背景には、分譲マンションの所有者の財産権への配慮や建替えが進まないことによる建物の不良ストック化を防ぐねらいがある。

 

<地区計画・景観地区区域内の適用除外措置>

また、それ以外の例外措置としては、地区計画・景観地区指定区域における適用除外が規定されている。

地区レベルの詳細なルールを定めるツールである地区計画や景観地区において高さの最高限度を定めた場合は、地区計画や景観地区の制限内容が優先されるという意味である。

つまり、地区計画で35mより高い数値を設定すれば、高度地区の制限が緩和されることになり、逆に高度地区より低い数値を設定した場合は、その厳しい制限値が適用されるわけである。

ただし、庭園からの眺望景観保全という趣旨からすると、35mの数値を緩和する地区計画や景観地区が指定される可能性はほとんどないと言えるだろう。

 

 

■旧古河庭園周辺高度地区の特徴

旧古河庭園周辺高度地区の特徴をまとめると、以下のように整理できる。

 

1)東京都景観計画に旧古河庭園からの眺望景観保全が位置づけられ、計画で規定された定性的基準をより強制力のある手法で担保するために、高度地区が指定された。

 

2)高度地区指定の目的には、眺望景観保全だけではなく、高層マンションによる後背住宅地の住環境の悪化を予防する意図もあった。

 

3)高度地区の指定エリアは、特に高層建築物の建設が想定される本郷通り沿いの高容積が指定された商業地域・近隣商業地域に限定しているが、今回のスポット的な指定をきっかけとして、周辺エリアもしくは区全域への拡大も視野に入れていること。

 

4)35mという数値は、庭園からの眺望景観保全という観点では必ずしも十分とは言えないが、都市計画マスタープランに本郷通り沿道が高度利用を図るエリアとして位置付けられているため、一定の高度利用を許容する必要から導かれた高さであった。

 

5)高度地区の定量的基準(35m)を遵守する建物であるが、東京都景観計画による定性的基準(例:庭園外周部の樹木の高さを著しく超えない)を満たさない場合はどのように判断されるのかといった課題があると思われる。

 

 

 

 

街の記憶の「断絶」と「継承」 ~三菱一号館復元と日本橋の100尺ラインの保全を巡って~

2009(平成21)年4月、丸の内において日本初の洋風オフィスビルである三菱一号館が復元され、2010(平成22)年10月には日本橋において、高さ100尺(31m)の軒高ラインを基調とした日本橋室町東地区の再開発(コレド室町・ユイト)がオープンした。

この2つの計画に共通するキーワードは、「街の記憶の保存・継承」といえるだろう。

しかし、それぞれのプロジェクトを担う三菱地所と三井不動産(注)が、記憶の継承をまちづくりの拠り所として打ち出したのは、そう古いことではない。

むしろここ数十年、過去の記憶は克服すべき課題として認識されていたのである。

記憶の断絶とも呼べる象徴的な出来事が起こった年が、明治維新から100年目の年にあたる1968(昭和43)年であった。

 

今回は、丸の内における三菱一号館と日本橋における100尺ラインの継承の取り組みから、街における記憶の断絶と継承の意味について考えてみたい。

 

 

■1968年における記憶の断絶

 

1968(昭和43)年3月、三菱地所は、旧三菱一号館(当時三菱東9号館)の解体を開始し、 4月には、三井不動産が、従来の絶対高さ制限値31m(100尺)を大きく超える高さ156m(軒高147m)の霞ヶ関ビルを完成させた。

 

今でこそ、まちづくりにおける記憶の継承は当たり前のことのように思われるが、1968年当時、三菱旧一号館の解体は、陳腐化・老朽化したオフィス街からの脱却・再生を意味した。

また、敷地内に十分なオープンスペースを有する霞が関ビルは、新たな都市像を示す超高層ビルであり、「31m制限」から都市空間を解放する象徴的な存在でもあったのである。

 

いわば、高度成長期の真っ只中であった1968年当時、記憶の断絶は、むしろ肯定的、進歩的なものとして受容されていたと言えるだろう(三菱一号館の解体に対しては、建築学会をはじめとする反対意見も多かったが)。

 

 

■記憶の継承の取り組み

 

その後、約40年を経た今、三菱一号館は三菱地所によって復元され、三井不動産は日本橋において100尺(31m)ラインをまちづくりの拠り所としている。

それぞれの取り組みは、地区に存在する歴史性に着目し、街の価値を高めることを意図したものと言える。

 

①三菱一号館の復元

三菱一号館は、もともと1894(明治27)年に竣工した日本初の洋風オフィスビルであり、その後の丸の内オフィス街形成の出発点となる存在であったが、今から約40年前に老朽化を理由に解体された。

その後、2004(平成16)年に、丸の内二丁目の再開発に併せて三菱一号館の復元が発表され オリジナルの設計図、実測図、保存部材等を用いて、当時と同じく煉瓦組積造により再現されることとなった。

当時のプレスリリースによると、丸の内の「草創期の思想を改めて認識し、再現する建物を「丸の内らしさの源泉」として活用します」とあるように、三菱一号館の復元は、三菱グループや丸の内の原点回帰と言えるだろう。

 

○丸の内2-1地区再開発(三菱一号館・丸の内パークビルディング)
http://www.mec.co.jp/j/news/pdf/mec090427_2.pdf

 

 

②日本橋室町東地区における100尺ラインの継承

一方、日本橋の100尺は、1929(昭和4)年に竣工した国の重要文化財である三井本館の高さ100尺に由来し、さらに言えばもともと市街地建築物法(建築基準法の前身法)の100尺制限に基づくものである(ただし三井本館の軒高は、正確には88尺≒27mで、最高部の高さは100尺)。

これまで中央通りの西側では、三井本館を核として、日本橋三井タワー、日本橋三越本店によって、100尺の低層ラインの街並みが形成されてきた。

日本橋室町東地区の再開発は、こうした歴史的文脈を開発に取り込むことにより、中央通りを挟んで100尺ラインが連続する街路空間の創出を意図したものであった。

 

○日本橋室町東地区再開発と三井本館
(室町東三井ビルディング・コレド室町)
http://www.mitsuifudosan.co.jp/corporate/news/2010/0622/index.html
(日本橋室町野村ビル・ユイト)
http://www.nomura-re-hd.co.jp/news/pdf/100805.pdf
 (三井本館)
http://www.mitsuifudosan.co.jp/project/special/honkan/index.html

 

 

■価値観のうつろいやすさ

 

記憶の「断絶」から「継承」への転換の背景には、「容積率割増」という経済的インセンティブを核とする都市計画手法の確立が必要条件であったものの、街の歴史や文化に価値を見出す意識が、人びとの中に醸成されてきたことも欠かせなかったであろう。

 

歴史学者のアラン・コルバンは、「風景そのものの一部である評価システムは絶えず変化します。ある時代に美しいとされた風景が、別の時代には醜いとみなされることだってあるのです 」(「風景と人間」藤原書店)と述べている。

街の価値は時代によって変化する脆いものであると同時に、過去においては想像もできないような価値観の変化が起こりうるのである。

 

つまり、1968年における「記憶の断絶」が、約40年を経て、「記憶の継承」へとシフトしたこと自体は、不思議なことではないのかもしれない。

裏を返せば、100尺ラインや三菱一号館が、数十年後においても、街づくりの拠り所とされる保証は全くないとも言える。

 

 

■丸の内・日本橋に見るまちづくりの本質

 

しかし、丸の内も日本橋も、膨大な時間を費やし、多くの関係主体を交えた議論の積み重ねの結果として現在のまちづくりを進めていることから、そう簡単に方向転換することはないであろう。

むしろ、まちづくりの本質とは、31mライン等のルールを堅持することのみにあるのではなく、こうした地域内での議論と合意のプロセスを担う仕組みにあるとも言えるだろう。

そして、その議論の底流に「街の記憶」が存在し、人びとに共有されることによって、まちづくりに正当性や説得力が生まれてくるのではないだろうか。

 

街の記憶をないがしろにする安易な現状改変は論外であるが、現状凍結に固執することが街にとって望ましいとも限らない。

丸の内と日本橋における記憶の継承の取り組みは、この2つの極端な状態を回避し、乗り越えるための試みと言えるだろう。

 

 

(注)日本橋室町東地区の日本橋室町野村ビル(ユイト)の開発主体は野村不動産だが、日本橋におけるまちづくりの中心的役割は三井不動産が担っている。

 

 

(追記)

100尺(31m)ラインの継承は、街の記憶の保存であるばかりでなく、市街地建築物法の100尺(31m)規制という都市計画のルールの記憶の継承でもあるのではないか。

いわば100尺ルールを「都市計画の遺産」として、目に見える形で保存しているとも言えるだろう。

また、100尺(31m)の表情線の保全は、丸の内においても行われているが、これについては別の機会に記したいと思う。

 

○市街地建築物法の100尺制限の成立経緯については、下記論文を参照。

「市街地建築物法における絶対高さ制限の成立と変遷に関する考察. -用途地域の100尺(31m)規制の設定根拠について-」(土地総合研究2008年冬号)

www.lij.jp/html/jli/jli_2008/2008winter_p051.pdf

 

 

容積率制度の制定経緯について

先日発行された「土地総合研究2011年冬号」で、容積率制度の歴史的経緯に関する論文を執筆しました。

タイトルは、「日本における容積率制度の制定経緯に関する考察(その1) ―容積制導入以前における容量制限:1919年~1950年―」です(土地総合研究19(1)2011年冬号、p83-105)。

 

この論文は、1919(大正8)年の市街地建築物法(現在の建築基準法の前身)から1970(昭和45)年に現在の容積率制度が確立するまでの約50年間を対象に、建築物のボリュームコントロールに関する制度の変遷とその背景について整理、考察したものです。

 

3回に分けて掲載を予定しており、今回は、1919年(大正8)の市街地建築物法制定から1950(昭和25)年の建築基準法制定までを扱っています。

この時期には、まだ容積制が導入されておらず、主に絶対高さ制限に基づきボリュームコントロールが実施されていました。

しかし、この時代の規制内容は、後の容積率制度の内容に多大な影響を与えることから、詳細に整理しております。

その2では、戦後復興から高度成長期に向かう1950年代を対象に、絶対高さ制限の見直しや容積制導入に向けた議論が活発化していく過程を追っていきます。

さらにその3では、1961(昭和36)年の特定街区制度創設、1963(昭和38)年の容積地区制度創設を経て、1970(昭和45)年に容積制が全面導入されるまでの過程を見ていきます。最後に、容積率制度の制定経緯の整理から明らかとなった容積制の課題と今後の展望についてもまとめる予定です。

 

※追記:論文のPDF版を土地総合研究所のホームページから見ることができます。下記URLからご覧下さい。

その1:http://www.lij.jp/html/jli/jli_2011/2011winter_p083.pdf

その2:http://www.lij.jp/html/jli/jli_2011/2011summer_p046.pdf

なお、その3については、2012年の夏頃に発表予定です。

 

 

以下、論文執筆の背景を簡単に記しておきます。

 

■容積率制度が有する課題

容積率制限は、建築物の床面積と道路・下水道等の公共施設の容量との均衡を図ることを目的とした都市の密度規制の一手法で、1970年の建築基準法改正で現在の容積制の枠組みが確立されました。

しかし、ここ数十年に渡る容積率の規制緩和の結果、容積率はある種の経済価値を表す指標としての意味合いが強くなり、本来の目的を見失っているように見受けられます。

 

現在、国は「集約型都市構造の実現」を標榜し、いわゆるコンパクトシティを望ましい姿として位置付けているようです(国土交通白書平成21年度版http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h21/hakusho/h22/html/k2322000.html)。

集約型都市構造を前提に容積計画を考えると、都心の密度を高める一方で、郊外部の容積を抑えることが必要です。

しかし、現実には、現状の容積率が既得権益化し、現状の指定容積率を下げることは難しいと言われています。

また、容積率の緩和制度が、周辺市街地の形態から大きく乖離した高層建築物の建設を可能とし、全国各地において建築紛争を招いています(高度地区や景観計画を活用した絶対高さ制限導入の動きは、こうした容積制の欠点を補完するための取り組みと言えるでしょう)。

その一方で、斜線制限や狭小化した敷地等においては、指定容積率が十分に消化できないために、都心の高密化が進まないという現状も指摘されています。

 

なお、容積率制度の課題については、西村幸夫・東京大学教授が、「都市計画 根底から見なおし新たな挑戦へ」(学芸出版社)の中で明快に整理されておりますので、是非ご参照下さい。

http://www.gakugei-pub.jp/mokuroku/book/ISBN978-4-7615-2501-9.htm

 

■人口減少時代に向けた容積制のあり方を考えるために

容積率制度自体は、市街地の拡大や人口増加を前提とした時代に作られた制度です。

本格的な人口減少社会を迎える今、容積率制限はどうあるべきなのか、その必要性も含めて議論をする時期にあると思われます。

容積制のあり方、ひいては市街地の形態・密度のあるべき姿を考える前提として、現在の容積制が成立した背景を再確認する必要があるのではないでしょうか。

今回の論文がその一助となれば幸いと考えております。

 

 

幻のタワー計画  ―高さ550mの正力タワーと高さ600mのNHKタワー―

2011(平成23)年12月に東京スカイツリーが竣工し、翌2012(平成24)年春に開業が予定されている。

その高さ634mは、東京タワー(333m)の約1.9倍に及ぶ。

しかし、東京スカイツリー完成の40年以上前に、東京タワーの高さを遥かに凌ぐタワーの建設が2本も計画されていたのである。

それが、1968(昭和43)年に日本テレビが発表した高さ550mに及ぶ「正力タワー」と、翌1969(昭和44)年にNHKが発表した高さ600mの電波塔である。いずれも完成していれば、当時世界一の高さであった。

 

 

■正力タワー(高さ550m)

1968(昭和43)年5月10日、日本テレビは、新宿区東大久保1丁目の同社所有地(現在の新宿6丁目の日本テレビゴルフガーデン跡地)に、総工費150億円をかけて、高さ550mのテレビ塔「正力タワー」を建設する計画を発表した。

その名前が示すように、正力タワーは、当時、読売新聞社社主で日本テレビ会長でもあった正力松太郎の発案により計画されている。

 

当時、世界一の高さを持つ電波塔は、1967(昭和42)年にモスクワに建てられたオスタンキノ・タワーの537mであり、正力タワーの550mはこの高さを意識したものであった。

正力タワーは、高さ200mと400mの位置に、それぞれ1,000~1,500人が収容可能な展望台を設置するとともに、塔の下部には20~25階建ての建築物を建設し、住宅やホテル、オフィス、百貨店といった複合機能を盛り込み、新たな東京のシンボルとなることを意図していたようである。

正力は、「これは広く大衆のためになることだし、高いところにのぼりたいというのは人間の本能だから採算は十分とれる」と自信を持ってプロジェクトの成功を語っていた(読売新聞昭和43年11月2日朝刊)。

 

「550m」は途方もない高さに思われるが、かつて正力は、富士山より高い世界一のタワーの建設を読売新聞紙上で発表したことがある。

これは神奈川、静岡、山梨の3県をまたぐ基礎工事を要するもので、高さは実に4,000mを超えるものであった。

タワーの下には100階建て、200階建てのビルで埋め尽くし、「世界一の塔と世界一の都会が同時に建設できる」と正力は豪語していたという(「巨怪伝・下」p366)。

 

その非現実的とも思える計画と比べてしまうと、高さ550mの正力タワーは現実味のある計画に見える。

実際に、正力タワーの建設にあたっては、日本テレビ、三菱地所、三菱電機、大成建設の4社によって具体的な検討が進められていたのである。

1968(昭和43)年10月24日には起工式が執り行われ、11月22日からボーリング調査が開始されている。

また、12月から翌年2月にかけて、欧米諸都市への視察団が派遣され、海外におけるタワーやテレビ・通信事情の調査も実施された。

 

そして、1969(昭和44)年6月23日には、東京都に建築申請書が提出され、正力タワー建設の準備は順調に進んでいったのである。

 

 

■NHKタワー(高さ600m)

しかし、何でも世界一でなければ気がすまない正力松太郎に冷や水を浴びせるように発表されたのが、NHKによるタワー計画であった。

 

1969(昭和44)年7月2日、NHKは渋谷のNHK放送センター敷地内に、高さ600mの電波塔を158億円をかけて建設する計画を発表したのである。

このタワーは、「二〇〇メートルまでは鉄骨の四本足で支え、そこから五五〇メートルまではステンレスでおおった直径一五メートルの円筒形になり、さらにこの上に直径二-ニ・五メートル、長さ五〇メートルのアンテナを取付ける」(朝日新聞昭和44年7月3日朝刊)というものであった。

 

その高さは、高さ537mのオスタンキノ・タワーはもちろん、正力タワーを50m上回るものであるが、重量はオスタンキノ・タワーの約4分の1の7,000~8,000トンと軽量である点が売りであった。

 

また、正力タワーが、電波塔以外の用途としてホテル、オフィス、百貨店等の複合利用を想定していたのに対し、NHKタワーは純粋に電波塔として計画されていたことが大きな相違点と言える。

 

 

■タワー建設の背景

1960年代末と言えば、東京タワーが建設されてからまだ10年しか経過していない時期である。

では、なぜこの2本のタワーが計画されたのであろうか。

 

当初、東京タワーを電波塔として利用していたのは、フジテレビ、日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)、NHK教育テレビのみであった。

一方、既に開局していたNHK、日本テレビ、TBSは、それぞれ独自の電波塔を使っていたのである。

 

その後、TBSは東京タワーへ移ったものの、NHKと日本テレビは依然として、自前の塔を利用していた(日本テレビが東京タワーを使わなかった理由として、東京タワーの建設が、読売新聞のライバルである産経新聞の主導だったためとも言われている)。

この時期、本格的な超高層ビル時代を迎えつつあり、正力タワー建設が発表される1ヶ月前の1968(昭和43)年4月には、高さ147m(最高部は156m)の霞が関ビルが竣工している。

当時使われていたNHKの電波塔は150m、日本テレビは155mにとどまるため、今後、霞が関ビルのような超高層ビルが林立することで、電波の届きにくい難視聴区域が増えることが予想された。

また、郵政省(現在の総務省)は、テレビ放送の周波数をVHFからUHFに移行させる方針を示していたが、UHF方式は、電波が直進的であるため、アンテナが高くなければ電波が高層ビルに遮られてしまうとの指摘もあった。

 

そこで、難視聴区域の解消を目的として、1968(昭和43)年に日本テレビが、翌1969(昭和44)年にNHKが独自の電波塔の建設を発表したわけである。

 

しかし、日本テレビは、「同じようなものは二本いりません。笑いものになる」「最近になって計画らしいものを出し、まだ建築申請書も出していないNHKと一緒にされ、競合などといわれるのは全くのすじちがいではないか」とNHKを批判した。

一方のNHKも、「正力さんのは観光塔じゃないですか」「NHKが民放に恒久施設を借りた例がない。そんなことをしては聴視者に責任がもてない」と日本テレビ側を牽制している(朝日新聞昭和44年7月12日朝刊、読売新聞昭和44年7月19日朝刊)。

 

 

■郵政省による調停

当時、新たに同じようなタワーを2本も建設することは無駄ではないかとの批判の声もあがっていた。

既に東京タワーが存在していたのであるから、当然の反応であろう。

そこで、1969(昭和44)年7月には、放送事業の監督官庁である郵政省の河本敏夫郵政相(当時)が調停に乗り出し、NHKに対して、利害関係者である東京タワーや日本テレビとも十分話合って調整するよう指示を出した。

 

これ受けて、9月3日にはNHK前田会長が会見を行い、「塔の方はしゃにむに建てるつもりはない。これは正力タワーとの調整がつくまで、一応“空中の楼閣”としておく」と、タワー建設の延期を表明した(読売新聞昭和44年9月4日朝刊)。

一方、日本テレビの福井社長は、10月24日の会見で、「正力タワーについては、あくまでも実行する」と強気の姿勢を示しながらも、「日本テレビとNHKで別々に二本タワーを建てることは無意味」であるため、「NHK前田会長とも積極的に話し合う用意がある」と、態度を若干軟化させている(読売新聞昭和44年10月25日朝刊)。

日本テレビの姿勢がトーンダウンした背景には、10月9日に正力松太郎が死去したことも多分に影響していたと見られる。

 

こうして、1970(昭和45)年1月には、河本郵政相が一本化を発表し、同年11月には日本テレビが東京タワーの利用を開始することとなり、2つのタワー計画は自然消滅した。

 

 

 

今では既に忘れ去られてしまったタワー計画であるが、もし、この2つの600m級タワーが建設されていたならば、東京のスカイラインが現在と大きく異なるものになっていたことは間違いない。

そして、新たな東京のランドマークとなりつつある東京スカイツリーも存在しなかったであろう。

 

 

表 正力タワーとNHKタワーを巡る出来事の経緯

年月日

出来事

1968年(昭43)

4月18日

日本初の100m超の高層建築物である霞が関ビルが竣工(高さ147m)

5月10日

日本テレビ正力会長が、高さ550mのテレビ塔「正力タワー」の建設を発表

10月24日

正力タワー建設予定地で起工式(300人出席)。ホテルニューオータニで起工式披露宴を開催し、政財界等から約2,500人が出席

11月22日

正力タワー建設予定地でボーリング調査開始

12月28日

テレビ・通信事情の情報収集のためのアメリカ視察へ出発(日本テレビ幹部2名)

1969年(昭44)

1月16日

ヨーロッパ諸都市(モスクワ、ベルリン、ウィーン、シュツットガルト、ハンブルグ等)のタワー施設調査のための視察団が出発(日本テレビ、大成建設、三菱地所、三菱電機から5名派遣)

6月23日

日本テレビが、正力タワーの建築申請書を東京都に提出

7月 2日

NHK前田会長が、渋谷のNHK放送センター敷地内に高さ600mの電波塔建設を発表

7月11日

河本郵政大臣が、NHKに対し東京タワーや日本テレビと話合って調整するよう指示

9月 3日

NHK前田会長が、正力タワーとの調整がつくまで、NHKタワーの建設延期を表明

10月9日

正力松太郎・日本テレビ会長死去

10月24日

日本テレビ福井社長が、NHK前田会長と話合う用意があると発言

1970年(昭45)

1月 9日

河本郵政大臣が、2つのタワーの一本化が決定と発表

11月10日

日本テレビが、東京タワーを送信塔として利用開始

 

 

<付記> ※写真を2011年4月12日追加

正力タワーの建設予定地であった敷地には、その後日本テレビゴルフガーデンがつくられ、現在、オフィスや住宅等の複合施設を含む再開発が進められている。

高さ96mの「新宿イーストサイドスクエア」(業務棟)と高さ111.7mの「パークハビオ新宿イーストサイドタワー」(住宅棟)が建設中である。

この敷地は、神宮外苑のイチョウ並木から明治神宮聖徳記念絵画館(以下、絵画館)を正面に見る眺望景観の背景にあたるため、完成すれば、絵画館の後ろに高層棟が見えることが予想される。

もし、正力タワーが実現していれば、神宮外苑のイチョウ並木と絵画館の背景に550mものタワーが屹立することになったのである。

 

なお、東京都は、絵画館への眺望景観保全を「東京都景観計画」の中に位置付けており、景観誘導区域内に建設される建築物の高さや色彩等の誘導を行っている(東京都景観計画2009年4月改訂版p132~137参照)。

しかし、高さ制限は絵画館の背景2キロメートルの範囲内のみに適用されるため、絵画館から2キロ以上離れている当該敷地においては、高さ制限は適用されず、色彩と屋外広告物の規制のみがかけられることになる。

 

東京都が定める眺望地点から絵画館への眺め

東京都が定める眺望地点から絵画館への眺め(2011年4月時点)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↑絵画館のドームの背景に、現在建設中の建物(おそらく業務棟)のクレーンが見える。絵画館基壇部左側に位置する住宅棟はイチョウ並木に隠れている。

 

眺望地点と絵画館の中間地点から絵画館への眺め(2011年4月時点)

眺望地点と絵画館の中間地点から絵画館への眺め(2011年4月)

↑東京都が定めた眺望地点から絵画館寄りの場所から絵画館を眺めると、絵画館基壇部左側に現在建設中の住宅棟が見える。

 

東京都が指定した眺望地点附近(青山通り交差点)

眺望地点(青山通り交差点)附近(2011年4月)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

横断歩道脇に設置された眺望地点の標識

横断歩道脇の縁石に設置された眺望地点の標識(2011年4月)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[参考文献]

三菱地所(1993)『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史 下巻』

読売新聞昭和43年5月11日朝刊「世界一のテレビ塔を建設 日本テレビ 新宿に五五〇メートル 今秋着工 高層ビルも含めて」

日本経済新聞昭和43年5月11日朝刊「NTV 世界一のテレビ塔計画」

読売新聞昭和43年10月25日朝刊「世界一のテレビ塔 「正力タワー」起工式 各界から名士、盛大に」

読売新聞昭和43年11月2日朝刊「「正力タワー」懇談 正力社主とブリンクマン氏夫妻」

読売新聞昭和43年11月23日朝刊「正力タワー、地盤調査始まる」

読売新聞昭和43年11月29日朝刊「高さくらべ 世界のテレビ塔 東京の「正力タワー」 完成すれば世界一」

読売新聞昭和43年12月29日朝刊「“正力タワー”建設で欧米視察 先発隊、アメリカへ」

読売新聞昭和44年1月17日(金)朝刊「正力タワー 海外視察団 第二陣が出発」

朝日新聞昭和44年7月3日朝刊「世界一のタワー NHK来週申請」

毎日新聞昭和44年7月3日朝刊「高さ600メートル、工費は158億円 NHKタワー 近く建築申請」

朝日新聞昭和44年7月11日夕刊「NHKタワー建設に 他の塔と調整指示」

朝日新聞昭和44年7月12日朝刊「世界一かけテレビ塔合戦 両者譲らぬ力相撲 行事・郵政省軍配に困る」

読売新聞昭和44年7月19日朝刊「五百五十メートルの正力タワー 建築申請書を提出 福井日本テレビ社長が発表」

読売新聞昭和44年9月4日朝刊「「正力タワー」との調整つくまで待つ NHKタワーの着工」

読売新聞昭和44年10月25日朝刊「正力タワー、NHKとの調整 話し合いの用意 福井・日本テレビ社長談」

朝日新聞昭和45年1月9日朝刊「二つのタワー一本化 NHKとNTVが妥協」

佐野眞一(2000)『巨怪伝(下) ―正力松太郎と影武者たちの一世紀―』、文藝春秋(文春文庫)

ウィキペディア「東京タワー」

東京都景観計画 http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/kenchiku/keikan/machinami_01.html(東京都都市整備局ホームページ)

原爆ドーム周辺における高さ制限が当面見送りへ

広島市は、原爆ドーム・平和記念公園周辺を対象に、景観法に基づく高さ制限を検討していたが、地元合意が図れないとして、実施が当面見送られることとなった(2010年12月16日付、中国新聞)。

 

この高さ制限は、景観法に基づく景観計画を活用したもので、「原爆ドーム及び平和記念公園周辺地区景観計画(素案)」として、2008(平成20)年7月に公表されていたものである。

高さ制限に反対する地権者や住民との合意が図れないまま、2年以上が経過していたが、市は、地元の理解が得られないとして、2010(平成22)年12月15日に開催された広島市議会建設委員会において、当面見送ることを表明した。

しかし、記事によると、市は、まず高さ制限を除いた景観計画を策定し、高さ制限については、地元の理解を得た段階で再度検討するという。

 

確かに、景観計画は高さ制限に特化したツールではなく、景観形成のビジョンとなる基本方針をはじめ、景観形成基準、公共施設、屋外広告物、景観資源(歴史的建造物・樹木等)といった様々な内容を盛り込むことが可能な制度である。

そういった意味で、今回の高さ制限見送りは、「高さ制限の前に、まずはビジョンの共有を図る」という選択であったといえるだろう。

 

なお、原爆ドーム周辺における高さ制限のこれまでの経緯については、下記参照。

「世界遺産・原爆ドーム周辺における景観保全のための高さ規制 

-美観形成要綱から景観計画へ」

http://www.hed-lab.jp/blog1/?p=32

 

参考記事

中国新聞2010年12月16日記事「ドーム周辺の高さ制限見送り」

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201012160023.html